主人公は、親友からの告白を受けるが…

 気になったのは、第1話で提示される「過去の出来事」と、その後の琉の心の動きのギャップです。

 物語の冒頭、琉はアイスホッケー部の親友である新(水上恒司)から、「好きなんだよね、お前のこと」と告白されます。この告白への戸惑いと、その直後に起きた悲劇(新の飛び降り事故)が、琉を日本からベルリンへと突き動かす原動力になります。

 つまり、琉の旅立ちは、他でもない「同性への愛着や欲望の衝突」によって引き起こされているのです。しかし、不思議なことに、その後にベルリンでヨハンと出会い、運命的な絆を結んでいくプロセスのなかで、琉が自分のセクシュアリティについて自省するような描写は、見事なまでにスキップされています。

“新のあの告白に、なぜ自分は応えられなかったのだろう”

“今、自分がヨハンに対して抱いているこの強烈な愛着は、新が自分に放った感情と何が違うのだろう”

 そういった内省のプロセスが描かれないまま、琉はヨハンを求め、ソウルまで彼を追いかけ、人生の苦楽を共にしようとします。

 そこにあるのは、間違いなくロマンティックで、時にエロティックな熱量をはらんだ「愛」そのものです。しかし、ドラマはそれを「恋愛」とは呼ばず、あくまで「ソウルメイト」という、性別や性的指向を超越した神秘的な言葉でコーティングします。

 ここに、作り手側の「最大多数の観客に届けるための保険」を感じ取ってしまうのは、少し意地悪すぎる見方でしょうか。

 もし、琉とヨハンの関係を明確に「ゲイ・ロマンス」として定義してしまえば、ある一定の層の観客は「自分たちとは関係のない、特定のコミュニティの物語」として、心理的な距離を置いてしまうかもしれない。それを避けるために、「これは男同士の恋愛ではなく、人間と人間の、魂の結びつきの物語なのです」という、誰もが受け入れやすいユニバーサルなパッケージングを施す。

 しかし、この「みんなに伝わるように普遍化する」という手法は、往々にして、マイノリティが実際に直面している具体的な生きづらさや、その輪郭を消し去ってしまうリスクと隣り合わせです。

 今、私たちが観たいのは、マジョリティの人々が都合よく感動できる「脱色された美しい心の交流」なのでしょうか。それとも、社会の規範からはみ出してしまう個人の、生々しい切実さなのでしょうか。

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