物語を盛り上げるエピソードも過酷すぎる

 本作の脚本・監督を務めた橋爪駿輝監督は、この物語を現代的な「ゲイ・ロマンス」としてストレートに描く代わりに、もうひとつの、物語をコントロールしやすくするための枠組みをはめています。それが「社会から疎外された者同士のシンパシー」というテーマです。

 八百長ボクシングに手を染めざるを得なかった貧困層のヨハン、そして罪悪感を抱えてさまよう琉。この「傷ついた者は、同じように傷ついた者を見抜く」という直感の力学によって、二人の10年が始まります。この演出自体は非常に抽象的で美しく、作品としての強さを持っています。

 しかし、この「傷ついた者同士」というテーマを駆動させ、ドラマチックに盛り上げるために投入される過酷なプロットは、あまりにショッキングなことの連続です。

・新の告白を起点としたアウティング、その後の飛び降り
・劇的な教会の火災
・大切な友人・澄子(橋本愛)の妊娠と、それに続く夫・精一(古舘佑太郎)の唐突な事故死
・ヨハンを襲う、現時点で根本的治療法が見つかっていない難病(ALS)

 次々と登場人物を襲うこれらの凄惨な運命を見つめていると、ある疑問が頭をよぎります。私たちは今、2026年の新しい物語を観ているはずなのに、なぜ1990年代の日本のテレビドラマに逆戻りしたかのような感覚を覚えるのだろう、と。

 そう、ここにあるのは、かつて90年代の野島伸司脚本の一連の作品(『同窓会』や『人間・失格~たとえばぼくが死んだら~』『高校教師』)などが広く世に提示した、「“タブー”への挑戦と、それに伴う破滅的な美」という、かつての表現慣行の再現に思えてなりません。

 過去のドラマにおいて、クィア性(性的マイノリティ性)は、しばしばロマンスにおける「究極の障害」を設定するためのギミック、あるいはスキャンダラスな「タブー」として消費されていました。

 その結果、キャラクターたちは過度に苛烈な運命をこれでもかと背負わされ、物語をドラマチックに盛り上げるため、そしてマジョリティの観客に安易なカタルシス(涙と感動)を提供するための「見世物」として機能させられていたのです。

 マジョリティの観客にとっては、社会の制度に異議を申し立ててくるような生々しい当事者よりも、「可哀想で、報われなくて、悲劇の中でしか美しく輝けないクィア」のほうが、圧倒的にエモーショナルで、都合よく消費しやすい。

 本作が後半に向けて急加速させるメロドラマ的展開は、まさにその「消費されやすいクィア・トラジディ(悲劇)」のフォーマットに、自ら進んで嵌まりにいっているように見えてしまいます。

 さらに、琉の良き理解者であったはずの澄子の描かれ方もそこに重なります。彼女は「結婚し、妊娠し、そして突然の事故でパートナーは死ぬ」という過酷なジェットコースターに乗せられます。琉とヨハンを「子どもを育てる共同パートナー」という形にするための「プロット上の都合の良い装置」として処理されてしまいます。

 すべての悲劇は、二人の「ソウルメイトの美しさ」を際立たせるための生贄のように捧げられていくのです。

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