一雄

 一雄は、早稲田大学を大正8年(1919)3月に卒業した後、拓殖大学に就職し、当の大正10年(1921)には、同大学の教務課に籍を置き、東洋協会の機関誌『東洋時報』の編集に当たっていた。しかし、マクドナルドの指示が入り、3月からは倉庫係長として、横浜グランドホテルに勤務することになる。

 ところで、ビスランドがその6年前(1915)に、再び夫とともに世界周航の旅に出て、日本に寄っているが、その年マクドナルドは大佐で海軍を退き、一雄入社の前年(1920)には、グランドホテルの経営者となり、久しく塒(ねぐら)としてきたホテルの運営に采配を振るうことになる。独身のマクドナルドには、近い親族がいなかった。彼は、まず間違いなく、一雄を己の後継者とすることを考え、そのために一雄名義でグランドホテルの株を買っている。さらに留学をも視野に入れて、毎日英作文の課題を与え、自分の部屋に呼んで指導していた。

 一雄は、セツへの手紙で、給与は「月に金110円也」と報告している。たまたまその4月に、学習院大学教授で近所付き合いをしている田部隆次が、1年間の留学のために横浜を発った。入社して1ケ月になる4月1日、セツへの手紙に、「マクドナルド様よりのすすめに従い、田部氏出発を見送ることとなり」とあり、また、「弟達の学費の足しとして、ここに金50円同封して送り申し上げます」と、高らかに書いている。

 その3週間後だが、セツは一雄に会いに行こうとした。4月24日付の彼の手紙には、「グランドにて東京某家の結婚披露の宴会の準備(のため)、我々雇い人等は甚だ忙しく、折角お出掛け頂いても、お目に掛かる(のは困難である)」と、押しとどめている。

 一雄がグランドホテルからセツに書き送っている手紙には、母子関係が良好であったことが示されている。その年の12月7日付の手紙では、セツの謡曲仲間の来訪に、巖と清が不平を鳴らしていて、それをセツが一雄に訴えていることが分かるが、確かに一雄はセツの側についていて、弟たちの不満は「我儘」と「嫉妬」からであると説明してやってもいた。また、当時セツが子供たちとの関係において、全体として幸福であったことは、一雄の次のような文面でも知られる。

 母上は肉親親子兄弟妹が集まって面白おかしく談笑している時に、「是が真に水入らずだからよい。嫁が一人増えたら、もうこうした真のうちとけた団らんの楽しさは味わへない」と再三おっしゃって……。

 翌年(1922)には、未亡人となったビスランドが来日した。彼女は、独身時代の1889年に来日してマクドナルドと親しくなり、翌年来日したハーンに紹介状を与えたのであった。それに始まって、来日は4回を数える。彼女自身茶道の嗜みがあり、広壮な邸宅と庭園は、洗練された日本文化を湛(たた)えるものであった。前年の11月から2月まで、かのワシントン会議が開かれており、3人の全権代表中の2人─加藤友三郎(ともさぶろう)と徳川家達(いえさと)を、邸宅に招いて饗応したといわれる。また、来日の際の船中で、もう1人の全権で駐米大使であった幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)(後の外相・首相)と言葉を交わしたという。

 ビスランドはマクドナルドの部屋を訪ね、一雄も呼ばれて、3人で一雄が留学する場合の専攻について語り合った。マクドナルドは法学を望み、一雄は哲学を希望したという。一雄は8月中旬のセツ宛の手紙に、田部が、ビスランドの宿泊先を尋ねてきたことを伝えるとともに、「日本語でよござんすから、(手紙を)差し出され下さい。私宛(に)」と書き送っている。

 マクドナルドは西洋人である。地下の倉庫を一雄の勤務場所とし続けたのは、精神を集中して勉強が出来るからであったに相違ない。しかし、日本の湿気は一雄の健康を蝕(むしば)み、翌年(1923)には、肺炎を患って入院、初夏には、信州の山田温泉に赴いて静養生活を送ることになった。その夏も終わる9月1日、関東大震災が起きる。一雄は急遽(きゅうきょ)実家に戻り、横浜に急行した。マクドナルドは、一旦ホテルの外に退避しながら、一女性が内に取り残されていると聞くや、身を挺してホテルに入り、瓦礫(がれき)の下で絶命して、69歳の生涯を閉じたのであった。

 大震災では、多くの作家の蔵書が灰燼(かいじん)に帰した。セツは、ハーンの蔵書が消え失せることを恐れ、田部に相談した。「田部」は養家の姓であり、長兄は、同じ英文学者の南日恒太郎(なんにちつねたろう)である。当時、兄弟の郷里である富山市に、地元の篤志家の多額の寄付を得て、富山高等学校(現在の富山大学)が設立され、恒太郎が校長に就任していた。彼は、ハーンの蔵書を学校の「床飾(とこかざ)り」にと切望し、法政大学による買い取りの内諾を押して、その購入に成功する。こうした事情も手伝って、その年の11月に引き渡された書籍の代金は、セツの予期せぬ2万円(一雄の給与の15年分)という高額となった。ともあれ、ここに「ヘルン文庫」の成立を見たのである。

 セツは、謡曲を通じて、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)の篠田賢易教授の未亡人である「篠田夫人」と、親交を結んでいた。一雄は彼女の仲立ちで、大震災から1年を経た8月に喜久恵(きくえ)と結婚、西大久保の家の敷地に別棟の家を建てて住み、その次の年(1925)には、セツの内孫の時(とき)(氏)が生まれたのである。

 一雄は、神経を病んでの静養に事寄せ、高等遊民の生活を送っていた。3年後(1928)には、埼玉県の三橋(みはし)村に屋敷を構え、狩猟を日課に入れた田園生活によって心身の強壮を図ろうとする。ただ、この転居が契機となって彼の執筆活動が始まった。一人息子の時(氏)が、「一雄にとって、その父の八雲は、太陽と惑星のように、生涯かけて慕い尊敬する対象でした」と述べている。実際、一雄の著作・編集のすべて(書籍七冊)が、父ハーンに関わるものであった。その中で、閑静な三橋村で書き進められた浩瀚(こうかん)な『父「八雲」を憶ふ』(1931)には、すぐれた知性と感受性が表われ、とりわけ「海へ」は豊かな生命感を湛えたもの─その抜粋英訳『Father and I』(1935)が、ホートン・ミフリン社から出ている。

 後年、八雲高等女学校の教壇に立ち、以後、印税が途絶した太平洋戦争中を含む7年間、講師生活を送った。その頃の教え子たちの思い出には、人格円満な良き教師としての一雄の姿が見られる。しかし、次第に不幸な精神状態に陥って行ったことは、『父小泉八雲』(1950)の叙述を覆う気分で、疑うべくもない。とりわけ、母親セツについてのハムレット的な不満から来る記述は、伝記の資料とすることを困難にしている。この精神状態は、人との付き合いに支障のない程度のものであったが、本人の心を不幸にしていたと察せられる。昭和40年(1965)に他界、満71歳であった。

藤三郎

 清の誕生から半年を経た7月、セツの実弟の藤三郎が姿を現す。セツは「絶交」していたにもかかわらず、渋々と─ハーンに伏せて─書生部屋に寝起きさせた。小泉家本家の戸主とは名ばかりであったが、藤三郎はその処遇に忍び切れず、20日ばかりしてハーンの前に打って出た。ところで、ハーンとセツは、東京に出る前の松江帰省の折、セツの実父(湊)の眠る小泉家の墓に詣でようとしたが、肝心の墓が見当たらない。善導寺の庫裏(くり)で聞けば、「あれは伜(せがれ)さんが売りなさいます(ママ)た」との話であった。藤三郎向かったハーンは、「あなた武士(さむらい)の子です。先祖の墓食べるの鬼となりますよりは、何故(なぜ)墓の前で腹切りしませんでしたか?」と、顔面を蒼白にして怒った。藤三郎は、その日のうちに発って、再び顔を見せなかった。彼はその16年後(1916)、戸籍の住所から遠からぬ空屋で死んでいるのを、管理人が見付けて届け出ている。45歳であった。

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長谷川洋二

歴史家、八雲会会員。1940年新潟市生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻、コロンビア大学のM.A. 学位(修士号1974)・ M.Ed. 学位(1978)を取得。一時期会社員、前後して高等学校教諭(世界史担当)。旧著『小泉八雲の妻』(松江今井書店、1988)のほかに『A Walk in Kumamoto:The Life and Times of Setsu Koizumi, Lafcadio Hearn's Japanese Wife』(Global Books, 1997)、『わが東方見聞録─イスタンブールから西安までの177日』(朝日新聞社、2008)がある。

八雲の妻 小泉セツの生涯

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