“ヘルン氏ノ妾”から“せつ氏”へ
8月4日、ハーンは大社宮司の千家家に招かれ、彼のために特別に取り計らわれた豊年踊りを見物した。『出雲大社教祖霊日記』の8月4日の条に、「ヘルン氏外二名豊年手踊見物に来り」との記載があるというが、『西田千太郎日記』の記載、それに「思ひ出の記」の表現から考えて、西田とともにセツが同行したことは、明らかである。そして、あるいは、この大社訪問の折に、セツとハーンによる、ある意味が籠められた参拝があったのかも知れない。なぜなら、後に『The Student』という英字誌がハーンの訃を報じた時に、「出雲大神宮にて結婚を挙行し」と記しているが、それは、セツの口から「出雲大神宮で」という言葉が出たためという可能性も考えられるからである。それはともあれ、5年後に法的手続きによって結婚が確定した時に、2人はこの日本随一の縁結びの大神の社殿に参拝している。
大社で踊りを見物した3日後の8月7日、ハーン・セツ・西田の3人は、舟で日御碕を訪れ、西田が日記で「せつ氏ノ縁家」と明記している小野男爵家に招かれて、午餐の饗応を受けた。その家には、セツがよく知り賢夫人として尊敬していた祖母が、老いの日を送ってもいたのである。この訪問の折にハーンが、セツと夫婦になったことをセツの従姉夫婦に伝えていることは、まず確実としなければならない。それは、西田が、10日前ですら日記に以前と同じ「ヘルン氏ノ妾」と書いていたのに、この7日の夜には、以後用いられる「せつ氏」の表現を使っていることからも察せられる。
ハーンは、セツの杵築到着の翌日、西田とともに千家家の饗応に招かれた時には「大酔」し、8月4日、再び招かれて豊年踊りを見物した時には、時の移るのを忘れて踊りに興じ、夜中の2時に至った。また『君が代』を教わり、3人でよく歌い、そんな時には子供のように無邪気だったと、セツは「思ひ出の記」の中で語っている。ハーンは人生の晩夏にあったが、間違いなく夏の陽を楽しんでおり、セツもその気分を共にしていたように思われる。
