いまの生き方を変えてみたいーー。そう願う瞬間は誰にでもあるもの。元テレビ東京のアナウンサー・大橋未歩さんは45歳で突然、NYへ移住した。緊張や失敗の日々が続くなか、“生き切る”とは何か。ありのままの姿を描いた『ニューヨークの林檎をむいて食べたい』(大和書房)から、一部を抜粋してお届けする。1年目の問題は、やはり「英語」。語学学校で焦りを感じた大橋さんは、なんと演劇学校に通い始めた。
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昼ドラも韓ドラもびっくりの泥沼。いつも“わけありの恋をする役”
ドラマシリーズ『SHOGUN 将軍』が、アメリカテレビ界のアカデミー賞とも言われるエミー賞を史上最多18部門で制覇、主演の真田広之さんが主演男優賞に輝いた。アメリカに暮らしていると、各種メディアで真田さんを見かける。書店に行けば、雑誌のカバーを飾る真田さんがキャサリン妃の隣でクールに笑っているし、これに出演すれば人気者の証と言われる高視聴率の夜のトーク番組「The Late Show with Stephen Colbert」にも出演されていた。いわゆる「真のハリウッドスター」という立ち位置に真田さんは上られたのだと思うが、40歳を超えてから本格的に海を渡り、英語での演技の勉強を始められた真田さん。あれから20年の道のりの厳しさは、想像に難くない。
実は、この半年の記憶がほとんどない。半年前、演劇学校に入学してからの年月が過酷すぎて。語学学校に通っていたものの、あるときから「ネイティブの会話に慣れないとダメだ」と焦りを感じ始めて、語学学校ではなく演劇学校に入学した。表現力を学ぶことはきっとナレーションなどアナウンサーの仕事にもつながるだろうし、何より英語のセリフを覚えれば英語の勉強にもなるだろうと考えたのだ。
とにかくアメリカ生活では「挑戦すること」が称えられる。畑違いだから恥ずかしいとかみっともない、みたいな受け取られ方はしない。失敗を恐れずに挑戦する姿勢をまず見てくれる。そして、この人たちには「失敗」という概念も存在しないんじゃないかと思うことさえある。挑戦してみてあまり成果が得られなければ、その経験を糧にして、また違う方向性を探ればいい。この精神性が、ニューヨークの得体の知れない熱気と活気の源泉なのかもしれない。
でも、いざ入学してみると、大人になってこんなに落ちこむ日々が待っているとは思ってもいなかった。授業は10週間1クール、5週ごとに演じる役とパートナーが割り当てられ、2人で1つのシーンを演じて毎週発表する。英語のセリフがびっしり書いてある脚本を5ページほど覚えるのだが、演じるためにはその物語全体を把握しなくてはいけないから、もちろんシーンだけではなくて脚本一冊も読破しなくてはならない。そして、覚えたとて、最大の難関「発音」が待っている。
みなさんはご存じだっただろうか、日本語の母音の数は5つだが、英語の母音はなんと15個‼ 日本語の子音は13個に対して、英語の子音は24個あると言われている。日本語より異常に多い。
もう感覚としては、舌と唇と頬の筋肉をこねくり回さないと、英語の発音などとてもできない。今まで何気なく言っていた木曜日Thursdayだって、正しく発音しようとすれば、舌の先端を上下の歯で挟まなくてはならない。つまり舌をあえて少し出しながらしゃべるのだ。嘘だろ!? なんで舌を出すのさ!! 舌を人に見せながら話すなんて恥ずかしいじゃないか!! と恥ずかしがり屋の日本人気質が突然顔を出してきて、俄かに信じがたいと周囲のネイティブを観察すると、みんな、ほんの一瞬だが、ちゃんと舌を出している。スムーズな会話の間にも、舌出しを怠ることなく、0.1秒くらいだが舌の先端を上下の歯でちゃんと挟んで発音していたのに驚いた。
スピーチクラスの先生に質問したことがある。
「英語を正しく発音しようとすると、唾が飛びませんか?」(どんな質問)
先生は満面の笑みでおっしゃった。
「飛ぶよ! 英語は飛ばしてなんぼ! どんどん話して飛ばしていこう!」(どんな回答)
英語は勉強でもあるが、今は「筋トレ」でもあると思っている。私たちが使ったことがない舌や唇や頬の筋肉をいかに総動員するかが勝負だ。
もちろん文化の違いにも驚く。先生と生徒がとにかく対等なのだ。圧倒的な実績を誇る先生に指導されたとて、自分が違うと思ったらみんな意見を言う。先生もそれを頭ごなしに否定したりはしない。先生と生徒の議論が始まる。
私がとっているクラスの先生は以前トニー賞(アメリカ演劇界のアカデミー賞)にもノミネートされたことがあるLorraine Serabian(ロレイン・セラビアン)先生。御年86歳!! アメリカでは年齢なんてただの記号という考え方が一般的で、採用面接でも年齢を聞くことは違法ではあるけれど、86歳というのはもはや勲章で、先生自身もたまに誇らしげに自分の年齢について話す。
ロレイン先生は、カリスマだ。本物のブロードウェイ俳優だっただけあって、髪はいつも美しく巻かれているし、美脚が顕(あらわ)になるパンタロンにカラフルなトップス、首にはいつも洒落たスカーフがあしらわれ、フォックスサングラスで颯爽と現れる。尋常じゃない洞察力を持っていて、本人も気づいていないような個々の生徒の隠れたキャラクターを見抜き、ぴったりの役どころに起用してくれる。
ちなみに私は毎回、わけありの恋をする役を与えられる。1度目はお金欲しさに夫を裏切って体を売る役(!)で、2度目は妻子ある男性と付き合っているけど若い男と恋に落ちる役(!!)で、3度目は夫がいるのに違う男性とキスをしてしまう役(キスで止まったので、これは少しマイルドかと思いきや)で、4度目は、夫との間にできた子どもを出産したはずが、実は不倫相手の子どもかもしれない(!!!)という役どころ。もう昼ドラも韓ドラもびっくりの泥沼だ。
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ニューヨークの林檎をむいて食べたい
2026年7月23日
定価 1,980円(税込)
大和書房
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