このまま妊娠を続行するのであれば……
突き当たって右、小さな児童公園脇から信号のある交差点を真っ直ぐ越えて坂をのぼり、バスが通る比較的広い道路と合流するとさらに傾斜がきつくなる。悪い予感のようなわずかな尿意が下腹部に広がるが、坂道で痛くなる足の母指球の方に意識を傾けてなるべくテンポを崩さないように歩いた。ドラッグストアや幼稚園がある、昼は賑やかな通りの方に右折し、急だった傾斜が少し緩やかになってくると、小さな美術館の脇に長い石製のベンチが見えた。目に入ってしまうとどうしてもそこで小休止したくなる。なるべく勢いを削がれたくない思いと足の痛みの狭間で決めかねているうちに美術館は間近にせまり、結局ひやりとした石製のベンチに腰掛けた。
あまり良いアイデアとは思えないままに携帯電話を出してくだらない店舗からのメッセージをいくつか消去してみると、麻子からの、やはりくだらないメッセージに返信していないことに気づいた。フランスの靴ブランドのファミリーセールの日程を間違えていて買いそびれたとか、最近知り合った男からのスイス出張土産が人生で食べたドライケーキの中で最も不味かったとか、そういう話題が細切れに送られて、最後に三十分ほどあけてか
ら「来月、ベトナム行かない? とりあえず来週末、遅めの昼かお茶でもどう?」というこちらの返信待ちのメッセージが来ている。
このまま妊娠を続行するのであれば来月にベトナムに行くのはあまり良い企画ではない。安定期に差し掛かるとはいえ妊娠中の海外旅行のリスクについては母子手帳を受け取る際にもらったパンフレットにも注意喚起があった。母子手帳を貰っている女の多くは何か予期せぬことが起こらない限りは妊娠を続行するのだろう。だけど私には来月ベトナムにいる自分の方が、妊娠が進行してお腹を大きくして歩く自分よりもずっと鮮明にイメージできる。
妊娠したのはおそらく二月の初めくらいのことだ。彼とは疫病禍でのひっそりした仕事の飲み会で知り合った。私にスポーツ記事の翻訳仕事を斡旋してくれる外資系メディア企業の執行役員の男に、懇意にしているワインショップの店長兼ソムリエだと紹介された。まだ居酒屋やバーの多くが店を閉めていた時期、ワインショップの奥にある小さなダイニングテーブルで、無観客で形だけ開催されたヨット関連のイベントの関係者打ち上げを開いたのだった。私はそのイベントには臨時の通訳のような形で安くないギャランティで参加していた。父親が自動車メーカーに勤めていたおかげで小学校の半分と中学校の一年の期間をデトロイトで過ごした私に、辛うじてできるのは語学だけで、それでも大学を途中で辞めて十年以上まともな仕事をせずに暮らした後に、細々とでもそういった仕事で食い繋いでいられるのだから、語学はいまだに多少は金になるのだ。でもそれも、あと数年の話だろう。
その後大して連絡もとっていなかったが、昨年末にお使い物のワインを買わねばならない機会が連続で二回あり、二回とも彼を頼ってちょうどよい値段のものを用意してもらった。日を改めてお礼に軽い昼食をご馳走してから、いつの間にか彼は自分のマンションより私の部屋で多くの時間を過ごすようになっていた。
「最初に茜ちゃんがあの飲み会で店に来た時から、付き合うかもって思ってたんだよね」

悪い血
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文藝春秋
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