2026年の今、私たちが見たい「関係の形」

 では、改めて最初の問いに戻りましょう。2026年の今、この『ソウルメイト』という作品を通じて、私たちはマイノリティの物語の「何を」受け取るべきなのでしょうか。

 本作が選んだ「ソウルメイト」という関係性の着地は、ある意味で現代の表現における優しい選択であり、同時に優しい逃避でもあります。

 性的マイノリティの抑圧や差別ばかりを描く時代は終わりました。すべての作品が社会の不条理を告発する必要はありませんし、何の葛藤もないただただ幸せな日常を描くファンタジーこそが、誰かのセーフティネットになることもある。

 しかし、アウティングや死、難病といった深刻な悲劇を盛り込みながら、クィアが直面する社会的な壁や内省のリアルだけを綺麗に脱色し、体裁のよい「美談」に仕立て上げる本作のチグハグさは、やはりマジョリティにとって都合の良い消費になりかねないと感じるのです。

 かつての90年代のように、過酷な運命で彼らを罰することでしか物語を駆動できないのであれば、それもまた、メディアの怠慢だと言わざるを得ないでしょう。

 ただ、琉とヨハンの関係は、既存の「友情か、恋愛か」という二分法を飛び越える、新しい関係性の提示(一般的な恋愛関係や性的欲求を前提としない、けれど友情を超えて強固に結びつく絆)としてポジティブに解釈することも可能です。

 実際、後半の「男性二人が澄子と子どもをともに育てる」という暮らしには、単なるメロドラマに回収しきれない、歪で切実な光景が立ち現れていました。

 それは安易な悲劇の上に築かれた奇妙な関係でありながら、既存の「標準家族」の枠組みを内側から静かにハックしていくような、もうひとつの共同体の可能性でもあったはずです。

 同時に、本作が頑なに二人の肉体的な接触や明確な恋愛のステップを避けた背景には、彼らが他者に恋愛感情を抱かない「アロマンティック」、性的欲求も抱かない「アセクシュアル」的な地平にいた、という可能性も地続きで横たわっています。

 結婚や血縁という、これまでの社会が独占してきた「家族」のシステムに頼らず、自分たちだけの新しい関係性を10年かけて大切に育て続ける。その姿は、確かにこれからの時代の「もうひとつの家族の形」の提案でした。

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