違和感を覚える「はぐらかし」の正体
ここで、私たちが生きる日本の現実に目を向けてみる必要があります。本作の美しいパッケージングに私たちが覚える、あの「はぐらかし」の正体は何なのか。
それを考えるとき、同じNetflixで世界的な熱狂を巻き起こした男性同士の恋愛リアリティショー『ボーイフレンド』を思い出す方も多いのではないでしょうか。あの番組が可視化したのは、まぎれもなく「今、ここ」に生きている当事者たちの等身大の姿でした。
しかし、そうした眩しいメディア表現のすぐ隣には、未だ同性婚や法的保障が存在しない日本という国の、シビアな現実が横たわっています。
法的なセーフティネットや社会的承認が最初から与えられていない社会において、マイノリティが誰かとパートナーシップを築き、それを「維持し続ける」ということには、異性愛者のそれとは比較にならないほど重い実存的なコスト(負担)がかかります。
さらに深刻なのは、そうした抑圧的な環境が、当事者たちの心のなかに「内面化された差別(ホモフォビア)」を植え付けていく構造です。周囲から「普通ではない」とされ、国の制度からも無視され続けることで、「どうせ自分たちの関係は一時的なものだ」「長続きしない」と、無意識のうちに自分たちの絆を過小評価してしまうのです。
琉が、自らのセクシュアリティを言葉にすることを注意深く避け、新の告白を単なる「悲劇の引き金」としてのみ処理してしまった背景には、こうした「法制度なき社会」が個人の心に落とす暗い影――すなわち、自分にラベルを貼ることへの恐怖や、無意識の忌避感が作動していると見ることも可能かもしれません。
しかし物語は、日本社会が抱える制度の不条理という泥臭いリアリティに踏み込む代わりに、その舞台をベルリンやソウルといったロマンティックな異郷の地に逃がし、すべてを「魂の結びつき」という綺麗な概念へと昇華させてしまいます。
これは、現代のマイノリティが置かれた過酷な現状に対する、あまりにもスマートで、それゆえに冷たい「脱政治化(社会問題をなかったことにすること)」に思えてしまうのです。
