この記事の連載

 疲れ目だと診断されたのち、突然視力を失った石井健介さん。現在は、見えない世界と見える世界を繋ぐ「ブラインド・コミュニケーター」として活動されています。

失明後、石井さんはどのような日々を送ったのか。自伝エッセイ『見えない世界で見えてきたこと』(光文社)より、一部を特別にご紹介します。

【前篇を読む】36歳で一夜にして視力を失った男性がプライドをへし折られた“まさかの選択”


失明前に通っていた地へまさかの形で再訪

 四ツ谷駅で下車し、オフィスのある四谷三丁目まで10分かけて歩く。これが視力を失う前3年間の通勤経路だった。その四ツ谷駅に、白杖を持ち始めてから1年が過ぎたころ、僕は再び降り立つことになった。この地に長年存在する「日本盲人職能開発センター(現:日本視覚障害者職能開発センター)」の門戸を叩くためだった。

 同センターは、盲人がもつ特殊能力に着目し、全国から集められた素質のある盲人の超能力を開花させるためのトレーニング施設で、僕は歩行訓練をしてくれたIさんからの推薦を受け、足を踏み入れることが許可されたのだ。……というような冗談を当時はよく言っていたのだが、大半の友人は「すげぇな!」と、ころりとだまされてくれた。このセンターの名称のもつパンチ力はあまりにも強い。実際、僕もIさんからすすめられたときは、少々たじろいでしまったものだ。

 センターは超能力の開発ではなく、スクリーンリーダー(音声読み上げ)ソフトを使って文作成や表計算をするなど、パソコンの基本的なスキルを身につけるための就労移行支援事業を行っている。至極まっとうな社会的意義のある施設なので、ころりと転がってしまった人は、ちゃんと起き上がってくださいね。

 そういえば、と思い返すと、通勤時の四谷の交差点で、白杖を持った人をよく見かけていた。

 いつもなんとなく遠巻きに眺めていたのだが、まさか自分が白杖を持って四谷とヨリを戻すことになるとは、縁というのは不思議な巡り合わせだ。

 妻とふたり、初めてセンターを訪れたときのこと。基本的な説明を受け、書類の手続きを終えると、そのまま実際に授業を受けていく流れになった。その間の2時間近く、妻をセンターで待たせるのも悪いなと思った僕は、彼女に「新宿で待っていて」と伝えた。四谷から新宿までは新宿通りで1本道、そして歩き慣れた道だ。きっとひとりでも歩くことができるだろう。

 僕の申し出にしぶる彼女を尻目に、僕は「大丈夫だから」と大見得を切ってみせた。

2025.06.27(金)
文=石井健介
撮影=小禄慎一郎