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彼のような人にこそ“芝居”が必要だった

 主人公のダンがなぜ劇団に参加することになったのか。それは、劇団を仕切るリタが、稽古場の近くで偶然出会ったダンを誘ったからだが、リタが声をかけずにいられなかったのは、彼が何らかの助けを必要としていることに気づいたためだ。ダンが今どんな状況にあり、なぜ助けを求めているのかはリタにもわからない。それでも彼女は、この人には自分とは違う誰かになることが必要だ、と感覚的に理解したのだ。

 ダンの心を壊しかけていたもの。どうやらそれは、彼らの家族が体験したある悲劇に起因するらしい。それ以来、娘のデイジーは学校でたびたび問題を起こし、妻シャロンとダンとの間にも距離ができつつある。でもダンは自分の内側を掻き乱すこの感情をどう表したらいいのかわからない。今までは、何があろうとじっと心の内にとどめ、多くを語らないことでいろんな物事をやり過ごしてきたのだろう。ある意味でそれが彼なりの処世術だった。芝居とは、ときに大仰なセリフや身振りによって感情を表現するもの。ダンが演じることに惹かれたのは、自分ではどうすることもできない怒りや悲しみを、どうにかして外に表したかったからかもしれない。

 飾り気のない小さな部屋で、劇団員たちは日々稽古をくりかえす。ダンのように演技未経験の者に合わせてくれているのか、演技のレッスンはただセリフを読み合わせるだけではなく、どれもユニークなものだ。ゲームのようにルールを決めみんなでふざけ合ったかと思えば、ときにはカウンセリングのように相手とじっと向かい合い対話をする。相手の言葉に耳を澄ませ、その言葉に反応するうち、段々と相手の気持ちを推しはかれるようになり、同時に自らの感情も吐き出せるようになる。その様子を見るうち、役を演じるとはつまり、他者を通して自分自身を理解することなのだとわかってくる。

 仲間と稽古を重ね、『ロミオとジュリエット』のテキストを繰り返し読み込むうち、ダンは徐々に自らの言葉を獲得していく。ラブシーンを演じる勇気も得る。だが彼らが演じるのは、ただロマンチックな恋愛物語ではない。10代の若者たちが、意味のない(としか思えない)戦いに巻き込まれ、あっという間に死へと突き進む、あまりに残酷な悲劇だ。フィクションとして語られる死の物語に寄り添ううち、彼は自らの過去と再び向き合うことになる。人生には、ときにどうしようもない悲劇が起こる。他者の気持ちを理解するのは難しく、どうやっても言葉が届かない。その苦しさを、ダンは演じることを通して学んでいく。

 ダンだけではない。ジュリエット役のリタは、ブロードウェイでの活躍を夢見てNYに渡ったけれど、思ったようなキャリアを築けず今は小さな街でアマチュア劇団を主宰している人だ。演じるのは『逆転のトライアングル』で注目を集めたフィリピン出身のドリー・デ・レオン。気が強く昔気質のリタは、ときに感情を爆発させては、そのたびに自己嫌悪に陥る。きっと過去にも感情を制御できず失敗を重ねてきたのだろう。それでも、彼女はこの場所で演劇を続けるため、徐々に他人と息を合わせることを学んでいく。ダンと同じように、リタもまた自分という人間と向き合うようになる、その過程がしみじみと心に響く。

 やがて舞台の幕が開く。ダンと家族、そしてリタをはじめとする劇団員たちが、時間をかけて築いてきたものがついに形を表す。それはたった一夜の催しだけれど、ここまでに費やされたいくつもの時間を、人々の心の旅路を、私たちはたしかに知っている。

『カーテンコールの灯』

6月27日(金) Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下他全国公開
©2024, Ghostlight LLC.
配給:AMGエンタテインメント
https://amg-e.co.jp/item/curtaincall/

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Column

映画とわたしの「生き方」

日々激変する世界のなかで、わたしたちは今、どう生きていくのか。どんな生き方がありうるのか。映画ライターの月永理絵さんが、毎月公開される新作映画を通じて、さまざまに変化していく、わたしたちの「生き方」を見つめていきます。

2025.06.27(金)
文=月永理絵