「はあ」
「お父さんから、悪い影響を受けたのは分かる。お前にばかりあのお父さんの相手をさせてしまったことを、申し訳なく思ってもいる」
「ひでえ言われようだな、おい」
親父は極悪人かと茶化すべきかと思ったが、養母までもが「そうよねえ」と同意するので喉まで出かけた言葉も引っ込んだ。
そんなはじめを、長兄がぎろりと睨む。
「――だが、それとこれとは話が別だ。この際だからはっきり言わせてもらうが、今のところ私達の頭を悩ませているのは会社の将来でも子ども達の将来でもない。お前の将来だ」
とにかく、我々に父さんの遺産は必要ないと長兄は断言し、次兄と姉も同時に頷いた。
このブルジョワめとはじめは毒づく。
「ウチの常連の社畜共の声を聞かせてやりてえよ」
「社畜の皆さんだって、遺産だけで一生食っていこうとしているお前にだけは言われたくないだろうよ」
話し合いがあらかた決着したのを見て取り、なりゆきを生温かく見守っていた弁護士が再び口を開いた。
「それでは、お父さまの遺言どおり、安原はじめさんが山を相続するということでよろしいですね?」
その場にいる全員の了承を得たのを確認し、弁護士は鞄から分厚い封書を取り出した。
「先ほど資産価値の話が出たばかりですが、実は山の売買に関して、お父さまからある条件が出されています」
「売っちゃいけないとか?」
税金込みの維持費をきっちり揃えてあることを考えればいかにもありそうだと思ったが、弁護士はそれには答えず、とにかく中を確認するようにと促した。
そっけない白い便箋に、父の自筆で書かれていたのは、たった一言のみであった。
『どうしてこの山を売ってはならないのか分からない限り、売ってはいけない。』
「はあ?」
何だこれ、とはじめは目を丸くしたのだった。
* * *
新宿区には、ギラギラした高層ビルを遠目にして、未だに昔ながらの街並みを残す地域が存在している。
いくつかの大学に囲まれたそこには、学生をメインターゲットに据えた安い飲み屋や弁当屋はもちろん、多種多様なラーメン屋に中華屋、雀荘やジャズ喫茶などが混沌として立ち並んでいた。
2025.03.14(金)