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「車をぶつけたことなんか、一度もないですよッ!」

「車をぶつけたことなんか、一度もないですよッ! こんな酷いことを言われて、とてもショックです。失礼だと思います。それに私は今まで事故だって一度も起こしたことはない、優良運転手ですよ!」 

 いつの間にか私の横に座っていたあなたが、私をなだめるように、「お母さん、車はもう何度もぶつけてしまっていますよね。うちの家の門にもぶつかったことがあったでしょう? それを責めているわけじゃありません。みなさん、とても心配してこうやってお話ししてくださっているんです。できれば、お母さんが自主的に……」と言って、途中であきらめたようで、それ以上何も言わなかった。

 この子は噓をついている。私は一度たりとも、車をぶつけたことなどない。 

 長瀬さんはあなたに加勢するように、「お母さん、お嫁さんもこう言ってくれていることですし、車の運転はおやめになったらどうでしょうか」と迫ってきた。 

 そこにいる全員を確実に黙らせるために、私は、真実を突きつけることにした。自室まで急いで行き、自分の免許証を持ってきて、開いて見せたのだ。 

「私が運転したらあかんと、どこに書いてありますか? 法律で決まっているんですか? どうなんです? 後期高齢者は車を運転したらあかんと、法律で決まっているんやったら、どんな法律の何条に書かれているんか、今ここで教えてください。万が一決められているんやったら法を守りますけど、そうでないんなら車は手放しません。免許だって絶対に返上はしません。

 この免許証を見てください。ここに、『運転してもかまいません。安全運転でがんばりましょう』と、はっきりと書いてあるやないですか」と、私は自分の写真の横の文字を指さして見せた。 

 自分の声がどんどん大きくなるのがわかった。 

 熱をもった強い怒りをどうにかして鎮めようと、胸元を手のひらで強く押さえても、赤くなった顔は色を失うことなく、震える口元を隠すこともできなかった。 

 長瀬さんは困ったような表情をし、デイの責任者は冷めてしまった緑茶の茶碗を見つめていた。あなたは小さなため息をついて、うんざりとした様子だった。うんざりなのはこちらのほうだというのに。 

 味方だと思っていたあなたも、長瀬さんにたくさん告げ口をして、お父さんと私の生活に立ち入ってくるようになった。長瀬さんは素晴らしいケアマネさんで、明るくて、楽しくて、優しい方だと言う。賢いと思っていたあなたでさえこのていたらく。長瀬さんの口車に乗ってしまったのは、経験の浅さ故のことなのかもしれない。そうだとしたら、責める気はない。 

 でも長瀬さんには、大切なお知らせがあります。お父さんのことを世界でいちばん理解しているのは、私なのです。だから長瀬さんに出る幕はないのです。金輪際。一切。わかりますよね? 

2023.08.07(月)
文=村井理子