それにしても宮崎駿に『風の谷のナウシカ』(84年)制作のチャンスを与えたのは徳間康快であり、その後もジブリの決断を後押しし続けた。宮崎駿から推薦された押井守にも『天使のたまご』(85年)を制作するチャンスを与えている。00年に死去したときは、宮崎駿が「徳間社長は私達の社長でした。私達は、社長が好きでした」と始まる弔辞を読み上げた。

『コクリコ坂から』は徳間の死後11年経って制作された作品だが、鈴木は「感謝の気持ちをあのキャラクターに込めました」と振り返っている(『文藝春秋』17年7月号)。「カルチェラタン」は徳丸理事長の鶴の一声で存続が決まるが、まさに徳間康快の生き様が映し出されていたというわけだ。

 

「日本という国が狂い始めるきっかけは…」

『コクリコ坂から』は、爽やかな少年少女の恋の物語だけでなく、戦争の影響下にある父親の不在、「カルチェラタン」の存続問題、それを一気に解決してしまう剛腕理事長がクローズアップされることで、ちょっと面白い後味を残す作品になっている。

 父親のこと、戦争のこと、文化の巣窟、そして自分たちを支えてくれた恩人。これらをすべて受け継ぎ、記憶に残していくことが本作のテーマになっているように見える。もともと宮崎駿の企画意図は次のようなものだった。

「21世紀に入って以来、世の中はますますおかしくなってきている。なんでこんな社会になってしまったのか? 日本という国が狂い始めるきっかけは、高度経済成長と1964年の東京オリンピックにあったんじゃないか。物語の時代をそこに設定すれば、現代に問う意味が出てくる――」(『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』文春新書)

宮崎吾朗監督が父の脚本に付け加えた“セリフ”

 高度経済成長と64年の東京オリンピックで、日本人は自分たちの過去を徹底的に壊した。町並みが変わり、生活様式が変わり、人々の考え方も変わった。何もかも昔のままがいいわけではないが、何もかも壊してしまう必要はなかったんじゃないか。本作にはそんな問いかけがある。俊は「カルチェラタン」をめぐる議論の最中、次のように発言していた。

2023.07.28(金)
文=大山 くまお