「自分はこう生きたい」という想いのアウトプットとして作品がある
――映画は1995年から2020年を描いていますが、1995年は森山さんにとって、劇団ひまわりに所属して初舞台を踏んだころと伺いました。あの頃からずっと変わらない仕事への取り組み方など、あるのでしょうか。
舞台も映像も、あらゆる芸術が人と作らなければ成立しないものだと考えたときに、やはり大切なのは人との関わり方だと思います。僕は「係(かかずら)い」という言葉を使っていますが、人との距離感をどうつかんでいくかに想いを持ちながら作っていくことは、変わらないかもしれません。
――これまでの作品やエッセイを拝見していても「生きる」というワードがひとつ重要なものかなと思ったのですが、いかがでしょう?
まぁでも、そこを大事にしていない人はいないと思いますよ(笑)。自分が選択できない“両親”というものから生まれて、家族や学校といった小さな社会を経験し、その中で自分がチョイスするもの・しないものを経験し、情報を蓄積しながら育っていく。
その中で「自分はこういう風に生きられたらいいな」「こういう風に人と関われたらいいな」という“理想”が生まれてくるけど、全部が全部成立させられるわけではないですよね。それによって生まれるフラストレーションをどう解決し、折り合いをつけていくのかは人間社会の中で生きていく“個”としての宿命だと思います。
その中で自分が関わっている映像や舞台芸術にしても、“いま”という世界にどうコミットしようか、もしくはどういう風に対峙しようかというもの。作家やアーティストが表現を通して提示するのは「こんな世界であってもいいんじゃないか」「こんな世界だからこそ、こういう風にひっくり返ったほうがいい」といったものですよね。
そこに加担したり、自分でも提案したり、そうやって自分の思想を持ち込める作品に関わっていきたい、というのがベースとしてあります。そうした意味では、「自分はこう生きたい」という想いのアウトプットとして作品があるのかもしれません。
お金をもらっている仕事としてやっていることでもありますし、できるだけたくさんの人に観てもらいたいという想いと、自分が大事にしている価値観をどこで維持するか、というせめぎ合いは常にあります。絶対に崩しちゃいけないところのバランスをずっと考えながらやってはいますが、これは誰しもがそうだと感じます。
「どうやって自分と他者は一緒に生きていけるのか?」は、人との関わりの中で、皆それぞれが考えることですから。
――そうした中で、最近は「彼岸(あの世)と此岸(この世)の行き来」がひとつのトピックである、と伺いました(CREA Traveller 2021年夏号より)。
そうですね、今年の上半期は本当にそれしかなかったです(笑)。その後、7月にオリンピックの開会式があって。9月くらいから映画を3本ほど撮っているのですが、どれも死ぬっていう(笑)。死にたいから作品を選んでいるわけではなくて、「この作品は面白そうだ」というものをタッチしたらば結果全部死んでいました(笑)。
僕自身は生きることにストレスを感じているとか、死に向かっているということに悲観的な感情がとてもあるという訳ではないのですが、人や自然と対峙しながら、関わりながら生きていく中で、ある種同じことと言えるくらいに“死”があるように感じます。
2021.11.04(木)
文=SYO
撮影=榎本麻美
スタイリスト=杉山まゆみ
ヘアメイク=須賀元子