14歳でひとり、ヨーロッパ旅行に出かけることになった時も、17歳でイタリアに留学した時も、私の人生の節目に「リョウコ」がいた――。破天荒な母・リョウコの波瀾万丈な人生を通して、娘ヤマザキマリが感じたこと、学んだこととは何か。『テルマエ・ロマエ』のヤマザキマリさんが新刊『ヴィオラ母さん 私を育てた破天荒な母・リョウコ』について語る。

ヤマザキマリさん ©鈴木七絵/文藝春秋
ヤマザキマリさん ©鈴木七絵/文藝春秋

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86歳・母「リョウコ」の波瀾万丈な人生

 インタビューや講演会などで、自分のことを語る時、必ず話に出る「リョウコ」とは、私の自叙伝的マンガなどにも登場する、今年86歳になる私の母親のことだ。

 彼女は、昭和35(1960)年、27歳の時、父親の勧めで勤めていた会計事務所を勝手に辞め、ヴィオラ奏者として生きていくために実家を飛び出した。もちろん両親は激怒して半ば勘当状態。しかし、リョウコは、新天地・北海道で、札幌交響楽団の創立時に女性楽団員第1号となり、演奏家としての道をスタートさせる。

すきま風が入るおんぼろ下宿で、初めての一人暮らしが始まった 本人所蔵
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 そして、札響で自分の理解者となる指揮者の男性(つまり私の父親)と恋をして結婚するのだが、すぐに先立たれてしまい、シングルマザーとして幼い娘(つまり私)を抱えることとなった。親戚縁者のいない土地で誰かにすがる事もできず、育児も家事も仕事もすべて自分でなんとかするしかなかった。この頃は、まだ戦後の影を引きずっていて、女性が仕事を持つのもなかなか難しかった時代。そんな中で、「演奏家」という特殊な職業を選び、大好きな音楽を演奏するために、北海道に音楽を普及するために、そして家族と生きるためにリョウコが選んできた道のりは波瀾万丈だった。

2020.10.10(土)
文=ヤマザキマリ