激しい罪悪感を抱え、すべてを投げ打つようにして日本を去った青年・鳴滝琉(磯村勇斗)。そして、過酷な環境を生き抜き、心身に深い傷を負った韓国人ボクサー、ファン・ヨハン(オク・テギョン)。

 Netflixシリーズ『ソウルメイト』は、二人の青年の「生涯忘れ得ない絆」を追体験する作品です。

 遠く離れた地・ベルリンの厳かな教会で、二人は劇的な出会いを果たします。そこにあるのは、友情と呼ぶにはあまりにも情熱的な関係性。その一方で、私たちがよく知る「恋愛」を定義づけるような肉体的接触や、明確な告白のステップは、驚くほど注意深く避けられています。

 私たちは本作を「美しい現代の寓話」として手放しでうっとりすべきなのか、それとも「核心をはぐらかした、一歩後退の表現」として少し立ち止まって考えるべきなのか。今回は、変わりゆくメディア表現の現在地から、この繊細なドラマの骨組みを丁寧に紐解いてみたいと思います。

※この記事はNetflixシリーズ『ソウルメイト』のネタバレを含みます。


ストーリーの細部をじっと見つめてみると…

 ここ数年、映画やドラマにおける性的マイノリティの描かれ方は、本当に大きな変化を遂げてきました。ほんの少し前まで、日本のテレビや商業映画における描写といえば、過剰にコミカルにキャラクター化されるか、あるいは「社会に理解されない悲劇の主人公」として、涙を誘うためだけに消費される傾向が強かったように思います。

 しかし、配信プラットフォームの普及によって、その景色は一変しました。抑圧からの解放を描くだけでなく、ありふれた日常の喜びや葛藤をフラットに描写し、日常の風景として溶け込むフェーズへと進んだのです。

 では、私たちは今、さらにその先のどのような地平に立っているのか。私は、近年のBLカルチャーの目覚ましい成熟と、韓国クィア文学の幸福な融合が生んだ『大都会の愛し方』のような、新たな名作の誕生をどこかで期待していたのかもしれません。

『大都会の愛し方』には、都市に生きるゲイの青年たちの、時にだらしなく、時にユーモラスで、生々しく瑞々しい「生活」と「愛」のリアリティが、何の衒いもなく描かれていました。画面の向こうの彼らは、私たちのすぐ隣に生きている地続きの存在として、確かにそこにいたのです。

 単に「画面にマイノリティが登場する」という段階を完全にクリアし、「その登場人物が、社会のどんな不条理に直面し、異性愛中心の世の中の枠組みとどう対峙しているか」、あるいは「いかに生身の人間としてそこに呼吸しているか」という、より解像度の高い物語が求められるのが2026年の現在地です。

 こうした時代のなかで登場した『ソウルメイト』は、一見するとその最新のトレンドをスマートに取り入れているように見えます。3都市を舞台に、国境を越えたアジアの男性二人が、言葉の壁を越えて魂で響き合う──。

 けれど、そのストーリーの細部をじっと見つめていくと、ある「安全弁」が働いていることに気づかざるを得ません。それは、登場人物たちのセクシュアリティを、「あえて曖昧な霧のなかに閉じ込める」という選択です。

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