名ゼリフが登場しない、令和の『ばけばけ』
対して、現代の『ばけばけ』が描き出す景色はどうか。本作を観ていて驚かされるのは、SNSで拡散されるようなドラマチックな名台詞が、極めて抑制されていることです。
刺激的なフレーズや大仰な愛の告白、派手な展開に頼ることなく、本作は日常の些細な出来事を、どこまでも丁寧に、慈しむように描き出します。
例えば、トキがヘブンに「私も、(散歩に)ご一緒して、ええですか?」と問いかける、何気ない一場面。
この一言に込められた、相手にそっと寄り添おうとする意志、そしてともに歩むことへの純粋な喜び。こうした微細な描写の集積こそが、本作における「至福」の正体です。
私たちの毎日も、後から振り返れば「あの時、あんな素敵なことを言った」なんて記憶はほとんどなくて、ただ「あの日の光が綺麗だった」とか「お味噌汁が温かかった」といった、言葉にならない感覚だけが残っていたりします。本作はただそこにある「生活の質感」こそが愛おしさなのだと再確認させてくれました。
かつての山田版ハーンが、神経質で時にエキセントリック、そして深い孤独の影を背負った「個人の苦悩」の物語だったとするなら、一方の『ばけばけ』は、その孤独が日常の営みの中に溶け込んでいくプロセスを長い時間をかけて見守る「生活の記録」といえます。
この視点の変換も納得。かつてのように「日本の精神性を賛美し、伝統喪失を憂う外国人」という構図を強調しすぎれば、現代では日本に同化した外国人を「名誉日本人」として称揚するような、排他的なナショナリズムにすり替わってしまう危うさもあるからです。
今回、脚本のふじきみつ彦は、伝統の喪失を大上段から嘆くのではなく、ただそこにある二人の日々を淡々と、しかし確かな熱を持って描きました。
綴られているのは、後世が作り上げた「高潔な文豪」の姿ではなく、二人が積み重ねた、あまりにささやかで愛おしい日々の断片です。
制作プロデューサーの橋爪國臣によると、本作は小泉セツの著書『思い出の記』に流れる「空気感」を大切にしているとのこと。孤独な異邦人を、ユーモラスな人間味あふれる人として描き直すことで、人生のつらさは日常の幸福によって溶かすことができるのだと、私たちに語りかけてくるのです。
実際、トキからみたヘブンはそんな優しい夫だったはず。本作の八雲像はまさにトキが編み直した姿なのです。
