夫への強い愛情
夫が終焉(しゅうえん)に向かう時期のセツについては、豊富な資料が遺された。まず、東大解雇への実生活上の対応として、出費の大幅な削減を行っていることが、家計簿によって知られる。明治33年(1900)の最後の四半期から明治35年(1902)末までは、月平均の支出が約390円であったものが、解雇された明治36年(1903)には、257円に減じているからである。
すでに述べたように、長らく、朝目覚めてから夜眠りに落ちるまで、小さな子供を持つ母親の頭からその子のことが離れないと同じ程度に、セツの頭には夫のことがあった。解雇への怒りに対して無条件にハーンと並び立ったことは、「思ひ出の記」の草稿中に「和田垣(謙三)法学博士が或る処で演説して『大学小泉八雲を殺せり』という事を申されたと聴きまして、……確かに一因となつたのだとおもひました。故人のやうな気質の人に対して大学のしうちはあまりに冷淡で……」とあるのでも知られる。
そして、その年に35歳であったセツが、いかに強い母性愛で衰えゆく夫を包んだかは、ハーンがしばしば幼児心理に陥った事実からも窺われる。後に野口米次郎は、セツが次のように語ったとも記している。
亡くなる前の1、2年、ハーンは、心細さの圧迫にほとんど耐え得ぬようでした。ものの半日も私から離れていなければならないというだけで、すぐに心に生じます幾分のすねた気持を、一生懸命に隠そうと努めているのが、私にはいつも分かりました。しばらくの間私が外出しております時も、私を求めて、待ち望み待ち焦れ……、私の下駄の音を聞きつけるとすぐに「ママさんですか。なんぼ喜ぶ」と言って、急いで玄関に迎えに出たものでございます。(野口・英文前掲書拙訳)
さらにセツが、どれほどハーンの神経に気を遣ったかは、最後の年の8月、ハーンとともに焼津にいる10歳の一雄に、「(勉強中)いやな顔志て、たいぎなふう(を)しては、いけませぬよ、……父上の御気にさわらぬよふに、何事も気を付(け)て下されよ……」と書き送っているので知られる。
こういう特殊な状況下にあって、セツはハーンを深く愛し、その心の幸福を切に願った。同じ時に焼津にいるハーンに書き送った手紙には、「カワイ、ママ 子(ネ)ガウ、ト、子ガウ、デス。チカイ、ニ、シアワセ、マイリマス、ゼヒデス」とあり、また別便は、「シンセツノパパサマ。セカイ、イチバンノ、パパサマ。アナタノ、カラダ、ダイジヤウブ、デスカ。スコシ、モ、ビヤウキ、アリマセヌカ。タベモノ、オツカレ、アリマセヌカ。モスコシ、トキ、ヨウシヨク、タベマシヤウ子」で始まっている。
(中略)
