やはり、弟は東家によって殺されてしまったのだろう。さっきまでの自分であれば復讐を考えたのかもしれないが、今はそうしようとは全く思わなかった。

 だって、今の自分には、守るべきひとがいるのだ!

 ふしだらな女だと下賤の女からも蔑まれる浮雲を、そして、真実愛の結晶である彼女と倫の娘を、何に代えても幸せにしてやらなければならない。

 伶はその足で手水場へ向かい、髪に塗りつけていた安い染め粉を水で洗い落とした。

 水鏡に映った自分の顔は、少し前まであった険が抜けて、自分でも笑ってしまうくらい、記憶の中にある倫とそっくりだった。十年間の苦労が水に溶けてしまったようだ。

 倫は、自分の中に生きていた。あの優しい弟ならば、きっと、復讐よりも自分の妻と子を愛して欲しいと思うはずだ。

 浮雲と、愛しい姪に、望むことは何もない。ただ、貴女方を何よりも愛しく思い、死力を尽くして守る男がいるのだということだけは、知って欲しい。

 苦境の中にあって、きっと、心強く思ってくれるはずだ。

 先ほどの透垣に戻り、多少、音が鳴るのも構わずにそこを乗り越えた。

 濡縁では、陽だまりの中、長琴と並ぶようにして美しい少女が居眠りをしていた。

 微笑ましく思いながら視線を巡らせれば、桜の古木の下で、花を見上げている黒髪の後姿があった。

 ゆっくりと近付き、声をかける。

「浮雲さま。お久しゅうございます」

 自然と笑みが浮かんだ。ただ一礼をしてここを去り、以後は、陰ながら彼女達を支えていこう。

 振り返った彼女は、あれから十五年もの月日が流れたとは信じられないほど、記憶の中にある姿のままであった。

 その肌は瑞々しく、頰は頭上の桜をやどしたかのように、血の色を透かしていた。長く繊細な睫毛に縁取られた瞳は黒く、潤んでいる。

 魅力的な大きな目を見開き、彼女はまじまじと伶を見た。

 倫にそっくりの、伶を。

 それから、ゆっくりと首を傾げて、心底不思議そうにこう言った。

「あなた、だぁれ?」

 ――そこで伶は、倫は確かに自分から死を選んだのであり、そうさせたのが、この美しい女であることを知ったのだった。


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2025.01.16(木)