――自分は果たして、雪哉の母親として、ふさわしいのだろうか。
「梓さま」
たまらなくなり、雪正と離れるように歩いていた梓に声をかけてきたのは、先ほど厨房にいた郷吏の妻のうちの一人だった。
かつて、北家本邸から垂氷までついて来た、冬木付きの侍女だった女である。
「あの、あたし、今まで梓さまに言えなかったことがあったんです。そのぅ、冬木さまについて……」
「冬木さまについて?」
ちょっと躊躇った後、彼女は、覚悟を決めたように頷いた。
冬木が、梓が子を生したという噂を聞き、無理を押して北家本邸までやって来た時のことだ。
お凌の方に会う直前に、冬木は梓のいる棟にやって来ていたのだという。
「でも、梓さまは眠っていらっしゃって……その横に、雪馬坊ちゃんが寝かされていたんです」
彼女は、冬木が雪馬に乱暴するのではないかとひやひやしたが、そうはならなかった。
「あのひと、雪馬殿を抱き上げて――こう、笑ったんです」
「……何ですって?」
「笑ったんです。冬木さまが」
自分でも信じられないという顔をして、彼女は繰り返した。
「優しい、優しい笑みでした。あのひとのあんな顔、あたしは見たことがなかった」
そんな顔をした後で、冬木はしばらく、何も言わずに考え込んだ。
そして、わざわざ一度本邸を出てから、改めて正門から入り、あの騒ぎを起こしたのだという。
「あのひとが何を考えていたのかなんて、分かりません。あのひとはあたし達には本当に意地悪だったから。本当は、梓さまに文句のひとつでも言ってやろうと思っていたのかもしれません。でも、少なくとも、怒ってなんかいなかったんじゃないかって、あたしはそう思うんです……」
あんな優しい笑顔をした後に、いきなり怒り狂った冬木。その瞬間の変化を目にした彼女には、冬木の激昂は、どうにも納得がいかないものだったのだ。
「みんなが悪口を言うたびに、あたし、あのひとのあの笑顔が、どうしても思い出されてならなくって……」
2024.09.28(土)