スキップとたちくらみは仲がよかった。彼らはメインストリートから外れている人間が持つ独特の臭みを放っていた。大悟は最初、そんな2組と努めて距離を置いていた。

「僕を紹介してくれた人のグループと、スキップ・たちくらみは仲がよくなかったんです。こっちは、ポップ目の笑いで売れようとしていた。スキップとたちくらみは、そんな僕らを小馬鹿にしているようなところがあって。だから、最初の半年くらいは遠くから見ていただけ。すっごい変な人たちだな、って」

 1990年代、大阪の芸人界では、1つの成功パターンがあった。複数人でユニットやグループを組み、歌って、踊って、さらには笑いもできる集団をつくる。ターゲットは流行に敏感な女子高生たち。つまりは、アイドル路線だ。

 その代表格で、最大の成功例が1991年に結成された吉本印天然素材だった。通称「天素(てんそ)」からはナインティナイン、雨上がり決死隊といった人気コンビが誕生している。

 そんな流れとは無縁の関西の本格的なしゃべくり漫才コンビ、メッセンジャーの黒田有(たもつ)がクセの強いだみ声で時代背景を語る。

 

「昔っから吉本にはアイドル路線ってのがあるんですよ。結局は二番煎じなんですけどね。Winkが出てきたら、すぐあとにポピンズという女性アイドルグループをつくって。ぜんぜん売れませんでしたけど。光GENJIが流行ったら、今度はMAMっていうローラースケートを履いた男3人組が出てきたり。彼らも成功まではせんかったけどな」

 スキップとたちくらみも、それとは正反対の道を突き進んでいた。強面(こわもて)で、ダサく、「しゃべくり」一筋。ポップ路線の芸人とは、まさに水と油だった。

大悟と哲夫を急接近させた、たわいもない出来事

 哲夫は当時、関西学院大のサッカーサークル「新月(しんげつ)」の1年後輩だった丸尾将之とコンビを組み、半年ほど経過していた。留年が決まっていた丸尾は卒業したら一般企業に就職するつもりでいた。そのため、1年間という期限付きで哲夫のツッコミ役を引き受けていた。

2022.12.13(火)
文=中村 計