そして、そのようなトラウマの癒やしの旅は、『すずめの戸締まり』の場合は、鈴芽のさまざまな女性たちとの出会いと交流の旅になっている。まずは愛媛で出会う、民宿の娘の海部千果、そして車で神戸まで連れて行ってくれるスナックのママの二ノ宮ルミだ。
鈴芽はこの二人に、旅を助けてもらうだけではなく、心の深い部分での助けを得る。別れ際に反復されるハグが、そのことを表現する。
このように、鈴芽のトラウマの癒やしの旅は、女たちとの連帯によってこそ可能になっている。だが、女たちの連帯が完成するためには、鈴芽のケアのために若い時期を犠牲にした叔母の岩戸環との和解が必要となる。それが、後半のロードムービーの主題となるのは必然なのだ。鈴芽は母が津波に飲まれた宮城の実家というトラウマの中心へと到達する。
そしてなんと言っても、鈴芽のトラウマを最終的に払拭するのが、彼女に助力の手を差し伸べる男性たちではなく、ほかならぬ鈴芽自身であることが、この「女たちとの連帯としてのロードムービー」を完成させている。
「お城の塔のお姫様」状態の草太
だとすれば、本作はフェミニズム的な観点からこの上なくすばらしいものであるということになるのだろうか? これはもう少し検討の必要な問題である。というのも、女性が主体性を持ち、女性同士の連帯を描く物語そのものは、今や少なくないからだ。
本稿の筆者は著書『戦う姫、働く少女』(堀之内出版)で、そのような物語が多く生産される状況を「ポストフェミニズム」と名付けて分析し、さらには『新しい声を聞くぼくたち』(講談社)で、その同じ状況の中での男性とその表現はどうなっているのかを考察した。
これと同じ事が『すずめの戸締まり』に関しても考えられるかもしれない。すなわち、本作の女性中心的な物語はそれはそれでいいとして、その一方で男性キャラクターには何が起きているだろうかと。
私の第一印象は、本作では男性キャラクターがえらくぞんざいに扱われているな、というものであった。
2022.11.28(月)
文=河野 真太郎