まず草太であるが、先ほどの登場場面でそうであったように、彼は「イケメン」として記号化されている。もちろん大学生で教師になりたいという夢を持つふつうの男性としての側面はあるものの、それと「閉じ師」としての全国を旅する日常はしっくり噛み合わない。
そもそも彼はほとんど全編に渡って椅子である。私はこのモチーフに、日本人の主人公が去勢・身体改造して白人女性に仕える家畜人となり、人間便器となる沼正三の小説『家畜人ヤプー』(1956年から「奇譚クラブ」に連載)を想起した。
この比較は行き過ぎとしても、草太には男性学者のレイウィン・コンネル(『マスキュリニティーズ』(新曜社))が「従属的男性性」と呼ぶものが見出せるだろう。イケメンが従属的なのか、と思われるかもしれないが、彼のイケメン性は、かつて(そして今でも)女性キャラクターが性的対象として「モノ化」されたことの裏返しのようなところがある。
さらには、要石となった後の草太は、「城に幽閉されて騎士の救出を待つお姫様」の役割を受け持つことになる。まさに映し鏡のように、かつての「女性的役割」を受け持つのだ。騎士はもちろん鈴芽である。
友人・芹澤は「気の利いたヤツ」ポジションは得られるが…
拙著『新しい声を聞くぼくたち』では、ポストフェミニズム時代の男性表現のひとつのあり方として「助力者男性」という類型を指摘した。強力な女性主人公たちが自分の道を切り開いているそばで、彼女たちの助力者として精一杯の居場所を見出すような男性たちだ。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のマックスや『ターミネーター:ニュー・フェイト』のT-800がその例である。
今回の極上の助力者男性といえば、後半戦で鈴芽と環を東北まで運ぶ、草太の大学の友人の芹澤であろう。彼は最終的に「気の利いたヤツ」のポジションを確保はするものの、途中までは軽薄が服を着たような人物で、その茶髪とピアスで本当に教員採用試験を受けたのか? と思ってしまう(個人的には別にいいと思うのだが)。
2022.11.28(月)
文=河野 真太郎