日常の光景を撮り続けた
スナップショットを集積
世に「インスタ映え」する対象があるというのは確かだと思うけれど、ことはインスタに限らない。そもそも写真に撮ると映える、すなわち「写真映え」するものが、見渡せば私たちの周りにはいろいろと存在する。
それがどういうものかといえば、小さいもの。細かいもの。たくさんのもの。弱々しいもの。光るもの。反射するもの。透けているもの。揺れるもの。動き続けるもの。流れていくもの、などなど。
具体的な対象に則してみれば、人の手指や長い髪、窓辺のカーテン、ろうそくの炎、雨に濡れたアスファルト、寄せては返す波、といったところか。
こうした小さいものやたくさんのもの、揺れるものが、なぜ写真映えするのか。おそらくは、そうした要素が写り込むと、画面に生命感が宿るから。
小さいものがたくさん集まって、揺らぎながら延々と運動を繰り返し、ときが満ちるとふっと消える。けれどすぐにまた違う個体が立ち現れて、同じ営みをし始めて……。というのが生命の正体なのだと思う。写真映えする要素とは、生命の存在を強く感じさせるものばかりなのだ。それらが写っていると、画面に生命の息吹きが吹き込まれる感じがする。写真に限らずあらゆる表現は、その内部に生命を宿らせることを求めているだろうから。
気鋭の写真家・石田真澄の個展タイトルは、「ゆれていて、かがやいて、やがてきえて」という。ああ、まさに「写真映え」そのものではないか。
日常の光景を撮り続けたスナップショットを集積させるのが、彼女の創作手法の中心にある。自身が通っていた女子校での日々を撮ったファースト写真集『光年』を観ていても、なぜこんな変哲もないモチーフが人の目を惹きつける作品になり得るのかと不思議に思ったものだけど、その答えのひとつは「写真映え」にある。
彼女の作品は、写真映えするもので満ち溢れている。いや、写真映えするものだけでできていると言ってもいい。それで石田真澄の画面は、ごくふつうのものものばかりが写っているというのに、たとえようもなくキラキラ輝くのだ。
今展でお目見えする彼女の作品もまた同じ。光を受けてきらめく水面から出た手指はどこまでも、どこまでも伸びていくかのよう。ガラス越しに望む街の様子は、木漏れ日を浴びてこの上なく快い。
思い煩うことはないよ、今日も陽は差してる。観る人の背中をそっと押してくれる。
石田真澄 写真展
『ゆれていて、かがやいて、
やがてきえて』
会場 haku(京都府・京都市)
会期 開催中~2019年4月7日(日)
料金 入場無料
電話番号 075-585-5959
https://www.haku-kyoto.com/
2019.03.24(日)
文=山内宏泰