敗戦直後の戦争孤児を描いた西川美和監督の最新作『わたしの知らない子どもたち』。自身初となる戦争をテーマにした本作は、戦後の混乱期を生き抜いた孤児だけではなく、時代の波に翻弄される女性たちの姿や、在日コリアンの存在も描かれている。
戦争被害に留まらず、搾取の構造や、加害の記憶にも向き合った理由とは。本作に込めた思いを尋ねた(全2回の2回目/初めから読む)。
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性を武器にするか、消すか。極端な二択を突きつけられる感覚
――戦争孤児となった少女・琴子(小八重葵美)の元担任教師・曽根役を演じられた二階堂ふみさんとは、どのような対話を重ねられたのでしょうか。
二階堂ふみさんとは、事前に長々とした演技論やキャラクターの背景をディスカッションすることはほとんどありませんでした。
脚本をお渡しした際、「いまのこの時代に、こういう映画が作られることには非常に大きな意義があるので、参加できて嬉しい」と言ってくださって、その一言を聞いただけで「作品の核心を掴んでもらえている」と確信できました。
――本作では、琴子が、暴力や性搾取から逃れるために髪を短く刈り、胸を隠して「男の子」として振る舞い続ける姿が描かれます。一方では、曽根を通し、進駐軍相手の「観光事務員」と称されて体を売って生き抜く女性たちの姿も。監督はこうした女性たちの過酷な選択をどのように見つめられたのでしょうか。
女の子が男の子のふりをして生き延びるというのは、ある意味で寓話的なモチーフに見えるかもしれません。しかし焼け跡の無秩序な社会において、暴力や搾取に怯えながら息を殺すようにして生きていた女の子たちは、実在しました。
また、女性として社会に生きていると、性的な対象としてしか見られなかったり、容易に交換可能な道具のように扱われたりする現実に直面することがある。
その中で、「性を武器にしてしたたかに生きるか」、それとも「性別など最初から存在しないかのように振る舞って生きるか」という極端な二択を突きつけられる感覚は、実は戦後から現代に至るまで、ずっと形を変えて続いていることではないでしょうか。
むき出しの路上を生きる男の子たちの姿も悲惨ですが、性別を隠してでも自らを他人の思うままにさせまいとした琴子の姿には、女性の中に根源的に存在する強烈な反発の象徴を刻み込みたかったところがあります。
