これらの執筆時期の違いが一冊の中に重層的な魅力を付加していることは前提として、その一方で、五篇に共通して描かれているものもある。たとえば、別れだ。

「湿りの海」では、主人公の愛する娘と妻がアメリカのアリゾナ州に旅立ってしまったことから物語が始まり、その影を重ねるようにして心の拠り所にしていた隣人の親子も突然いなくなってしまうことで、二度の別れが主人公の孤独をより一層強調させている。「星の随に」では、窮地を救ってくれたおばあさんとの別れや、実の母親と一緒に暮らすことができない悲しみからくる少年の孤独と成長が描かれて、「銀紙色のアンタレス」では、告白してくれた幼馴染みや好意を持った年上の女性との別れが読者を感傷に浸らせる。

「真夜中のアボカド」と「真珠星スピカ」では、登場人物の死にまつわる描写がある。なかでも「真夜中のアボカド」は、コロナ禍において、その数年前に大切な双子の妹・弓が亡くなったところから始まる物語だ。

 弓の死因については思うところがあった。

 これはあくまでも憶測に過ぎないが、窪さんは本作の登場人物の死因に、あえて新型コロナウイルスを選ばなかったのではないか。

 文学は時に、現実世界の苦しみを真っ直ぐに描くことで読者を救ったり、権力や時流に警鐘を鳴らす役割を果たしたりしてきた。実際、過去の窪美澄作品にも、現実の悲劇や事件に触れた作品がいくつかあり、それらは広く受け入れられている。

 しかしその一方、モチーフの扱い方によっては、作品はとても無遠慮で、加害性を孕んでしまう可能性がある。二〇二一年における新型コロナウイルスは、まさにその最たる例と言えた。世界中で多くの人が、この時期に亡くなった。私の知人も、そのうちの一人だ。少なくとも窪さんが本作を執筆していた二〇二一年当時において、この悲惨な現状を大衆小説のモチーフにすることは、誰かの傷を広げ、悲しみを増やしてしまう可能性を持っていたことは間違いない。そして、窪さんは今作において、今はまだそうすべきではない(・・・・・・・・・・・・・)と、判断したのではないか。

2025.03.28(金)
文=カツセマサヒコ(小説家)