神聖視されてしまうことへの戸惑い

──ジェロニモさんは「自分向きの言葉」を見つめ直すことで世界が広がったと思いますが、いまは最初からアウトプットを決めてそれに合わせて言葉を探しているんでしょうか?
ジェロニモ 世間的に天才と言われる芸人さんや早くして売れる芸人さんは、自分の出力した言葉がそのまま、社会的な言葉にかなり近いものだと思うんです。けれど自分はそれが苦手で。先ほど「お笑いのときと、自分向けと分けている」と話しましたけど、外向けにわかりやすいものを出力したつもりでも、自分しかわかっていないな、ということもあるんですよ。かなりムラがある。
だから最初はネタにするのか、短歌にするのかというアウトプットは決めずに、この世界にいま自分がいるということだけを感じながら考えています。ちょっと仏教の話みたいになってきましたけど(笑)。そうやって生まれた言葉の中で、後々「これはいろんな人に伝わるかもな」というものをネタにしたり、「自分だけだな」というものを短歌にしたりという行為をしています。その分類を全くせずに並べているのが「説明」です。
──ジェロニモさんという人やその存在が知られることで、ジェロニモさんの「自分だけだなという言葉」がより理解されていく感覚はありますか?
ジェロニモ その実感はすごくあります。社会に対して発していない言葉を、社会側が理解しようとしてくれている。それは、自分という人間が生まれたままで、心地よく社会に存在できる術になるかもしれない、と思っています。ただ、一方で課題もあって。
いま書籍のトークイベントをしたりすると、ふざけて発した言葉が「本当にそう思います……!」という感じで受け止められたりするんです。スベるわけでもない、不思議な空気になってしまう。神聖視されるというか、お笑いを志した自分から見ると、予想もしていない受け止められ方をしているんですよね。だから「これは社会的な言葉じゃないんだよ」というのは適宜証明していく必要があるなと思っています。
2025.02.08(土)
文=釣木文恵
撮影=今井知佑