かつて都内で数店舗の飲食店の社長をしていた祖母は、「リサーチ」という体で東京中の美味しいものを全て食べ尽くしていたんじゃないか? と思うくらいにはグルメだった。私も幼い頃はよく外食に連れていってもらった記憶がある。家族経営だったため、父も母も調理師で、家でも「試作」という体で食べきれないほど大量の料理が出ていた。当然、家族全員太っていたし、食に対する感覚がみんなバグっていたように思う。家族で食事をした後も、父が部屋で一人こそこそキャンプ機材を広げて焼肉をしているのを目撃したことが何度かあり、子供ながらに引いていた。外食三昧の祖母と比べ、母は家で料理を作ることに強くこだわっていた。時々「餌作らなきゃ」とかいう言葉がぽろりと出るので、私たちは家畜扱いなのかよ……と悲しく思うこともあった。餌にしては豪華すぎるので、嬉しくていつも食べ尽くしてしまっていたけれど。人を太らせることが好きな人をフィーダーと呼ぶらしいが、母もちょっとその気があると思う。そんな家族のもとで育ったこともあって、私は20代前半頃まで平均的な一人前の量がわからなかったし、社会人になってからも食堂や定食屋で提供される食事が茶番のように感じてイライラしてしまうことがあった。シルバニアファミリーの食事会に、私だけ等身大サイズでお邪魔しているような、そんな感覚だ。

 とにかく、私は子供の頃から太っていたので、太りに関しては妙なプライドのようなものがあった。明らかに痩せている人が語る「太っている」という話には、無駄に怒りを覚えてしまっていたし、贅沢な悩みだと思って、嫉妬していた。10代半ばから20代前半の頃、周りの友達はこぞって「痩せ」に取り掛かっていた。仲の良い友達が痩せ薬を使ったり、極端なダイエットを始めたりしている様子を見て、「すごいね」「私は諦めたけどね」なんて余裕そうに答えながら、悲しさを隠していた。お互い尊重しあっている関係だと思い込んでいたが、心のそこでは軽蔑されているんだとか、自分の存在を否定されているような気がしていたのだ。ボディポジティブだとか、どんな身体も美しいとか、そういう言葉を胡散臭く感じてしまうのは、その辺の感覚がいまだに残っているからだ。誰かが「太っている」ことは気にならないとしても、自分自身が「太る」ことに関してポジティブに捉えられる人は少ないだろう。私自身、自分の太った身体に対し、誰よりも否定的な言葉を使って捉えてきた。

2024.04.05(金)