この記事の連載

「結局、新選組というのは、コンプレックスの塊なんですよ」

浅田 結局、新選組というのは、コンプレックスの塊なんですよ。学者が研究対象にしないのもよくわかります。歴史的な存在意義はないんです。俗に池田屋騒動が維新を十年遅らせたというけれども、そんなのはファンの身びいきですよ。では、あの人たちは何だったのかというと、何者でもない(笑)。それが小説家の心をくすぐるわけです。

磯田 何者でもないけれど、制服も奇抜で、新選組と同じく京都を警備していた見廻組とは比べ物にならないくらい目立つ集団だった。そして、何よりも恐れられていた。物語の主役にしたくなるのも無理はありません。

浅田 見廻組は旗本や御家人の次男坊、三男坊で構成されていて、武士のスタイルとは、どういうものかを最初から知っているから、お行儀がよくて、地味だったと思うんです。

 それに対して、新選組は近藤勇をはじめ、武士以外の身分の出身者が多いから、既成の武士のスタイルに捉われず、自分をスタイリッシュに演出することができたのでしょう。大丸に特注した羽織を着て、高い下駄を履き、鉄扇を持って闊歩する、というスタイルの源は、芹沢鴨の趣味だったと僕は、にらんでいます。近藤は朴訥な道場主で、土方ははっきりいって田舎者ですから、目立ちたがりで、お洒落な芹沢のスタイルにすごく憧れたでしょう。しかも、芹沢は当時、名の知れた尊皇攘夷の志士で、有名人だったから、余計に憧れが募った。

 近藤らが芹沢を斬ったときの畏(おそ)れも、その強い憧れから来ていると思います。だから、新選組はそれ以降も芹沢の美学に祟(たた)られていって、どんどん自分たちをかっこいいものに過剰に演出せずにはいられなかったと思うのです。

磯田 『一刀斎夢録』にも書かれていますが、芹沢の惨殺後、新選組内部の抗争も陰惨になっていきますね。

浅田 斎藤一もそもそも会津藩の密偵だった、という説をいう人もいるんですよ。最後の会津藩主である松平容保には仲人をしてもらうほど可愛がられ、容保だけでなく、後の代の方々も非常に尊敬して忠誠を尽くしている。その主従関係の濃さが根拠とされています。あながち荒唐無稽とは言い切れないですよね。

磯田 ええ。新選組は会津藩の指揮下にありますから、内部事情まで知りたいと思って、斎藤を使った可能性はあります。会津藩がよく密偵を活用していたことは様々な史料から明らかなので、考えられないことはありません。おそらく近藤たちに知られずに新選組の情報を会津藩の公用人・手代木勝任(てしろぎかつごう)(直右衛門[すぐえもん])らに知らせるぐらいのことはしていたかもしれません。伊東甲子太郎のところからこっそり新選組の屯所へ戻ってくるときも、斎藤はホームレスに変装していたという話もある。どうも動きが密偵風です。どこで習得したのかは、わからないのですが。

2024.02.29(木)
文=磯田道史