岸田國士戯曲賞、読売演劇大賞演出家部門賞と演劇界の主要な賞を次々獲得する加藤拓也。演劇のみならず、映像作品の脚本、監督も務める彼の、2本目となる長編映画『ほつれる』が2023年9月8日(金)に公開される。5月に上演された舞台『綿子はもつれる』と同じシチュエーションで作られたこの作品は、いったいどんな思いで作られたのか。彼はいま、何を描こうとしているのか。

映画と演劇、同じテーマを違うアプローチで

――映画『ほつれる』を観てまず驚いたのは、6月に上演された安達祐実さん主演の舞台『綿子はもつれる』と重なる部分が大きかったことです。

 そうですね。二作とも同じ事件からはじまります。

――演劇と映画、2つの媒体で同じモチーフを描くことについてぜひ伺いたくて。

 『ほつれる』と『綿子はもつれる』では、ことの発端は同じですが、迎えている結末は全然違います。そこに至る過程も、たとえば映画では旅に出ることで、舞台では他人を使って、それぞれ自分と向き合う作業をしている。同じテーマに対してまったく違うアプローチをしています。

――なるほど。

 このテーマを選んだ理由としては、「もつれる」という状態を今一度、人間に置き換えて定義してみるということが第一にありました。「もつれる」とは、ある空間において進行方向が異なるものが存在しているところから始まる。それが別々に進めば進むほど、どんどんもつれができあがっていくじゃないですか。そこから元の位置に戻ろうとしても、全ての分岐で正しい方向を選ばない限り、最初に戻ることはできない。間違った方向に進むと、またもつれが悪化していく。

――たしかにそうですね。

 それが僕ら世代、というくくりにも抵抗がありますが、僕らが人間関係においてふだん感じている、「一度たりとも不正解ができない」「常に選択肢から正解を選び続けなくてはいけない」という切迫感に近いと思ったんです。そこから物語のベースができあがり、それぞれアプローチを変えて映画と演劇という形になりました。

――「ほつれる」という言葉は、「もつれる」とはまたイメージが違いますよね。

 「ほつれ」は、ほどけ始めにも見えるし、見つけると「もう切ってしまえ」という気持ちにもなる。でも「ほつれ」を無理やりどうにかするのは乱暴ですよね。何らかの理由があってほつれたことに対して、切るという判断が果たして合っているのか。それは、他人の非合理に見える行動に対して、客観的に見て「非合理だね」と合理性を押し付けてしまうことの恐ろしさと重なる気がしています。「もつれ」た先も、「ほつれ」た先も、どうなるか誰にもわかりません。

無自覚な暴力を描きたい

――「乱暴」という話で言うと、加藤さんは岸田國士戯曲賞を受賞された際の受賞スピーチで「無自覚な暴力を描きたい」とおっしゃっていました。

 『ほつれる』でも『綿子はもつれる』でも、登場人物同士に無自覚な暴力の応酬があると思っています。どちらがいい、悪いという話をしたいわけではない。それぞれに合理的な理由をもっていても、他者から見ると非合理に見えてしまう。それなのに他人が勝手に相手に合理性を求めることも暴力だし、わかった気になることも、わかると思っていることも、また暴力だと思うんです。

――少し具体的な話をさせてください。舞台と映画、両方拝見してみると、とくに田村健太郎さんの存在が印象的でした。舞台では綿子の義理の子どもで、映画では綿子の夫という役柄。同じ人物が同じモチーフの作品で違う役柄を演じているのは面白いなと思ったのですが。

 演劇って特に、俳優と登場人物の所属、つまり年齢や性別が一致していなくてもいいんですよね。場所だって具体的にその場所である必要もない。抽象度によってテーマの解像度が上がるという作用があります。

 脚本を書き始めるとき、あまり「この役柄はこうだ」というキャラクターの設定をそこまで細かくしません。脚本ができあがったときに「あ、こういうキャラクターだったんだな」という決まり方。さらにそこに書かれたセリフが俳優の言葉として発せられることで多面的になっていく。田村さんは子どもから夫まで、縦横無尽に演じてくれましたね。

2023.09.09(土)
文=釣木文恵
撮影=平松市聖