私たちがなによりもよく知る奇跡
冬が終わり暖かくなってくると、韓国のラジオDJたちが繰り返し引用する一節がある。それは、春という意味を持つハングルについて書かれた「私たちがなによりもよく知る奇跡」という一文だ。キムさん自身も、この著書の中で最も気に入っている文章だそう。
「目が丸くなるくらいの面白いことも経験していないし、気持ちが重いときでした。コートを着て久しぶりに外に出てみたら、桜が咲いていたんです。このなんとも複雑な気持ちになったときに書きました。この一文を読み返した際、本当に満足したことを覚えています。多くの人の共感を呼び、大きく印刷されて大型書店の教保文庫の外壁に貼り出されたこともあります」(キム・ソヨンさん)
誰もが痛みを感じた事件をきっかけに自分の言葉を探す
日本で読者を広く獲得しているフェミニズム文学だけでなく、韓国発のエンターテインメントには、必ずと言っていいほど、社会への眼差しが差し込まれている。もちろん、『一文字の辞典』にも。なぜ、自分の立場を表明できる強さを皆、持っているのだろうか。
「韓国文学は、ありのままの社会を描いたリアリティ文学と、純粋に芸術を追求した純文学がハッキリと分かれてポジショニングされている時期がありました。ただ、聖水大橋が突然崩落しバスや乗用車が落下した事故(1994年)や、高校生を300人以上乗せたセウォル号が沈没した事故(2014年)をきっかけに、その境界線がどんどんあいまいになっていきます。韓国の人であれば誰もが痛みを感じた事件に我々クリエイターも衝撃を受け、この悲しみをどうにか表現に変えていくことを始めました。
さらに、文学者や書き手たちはアメリカやヨーロッパの芸術にも触れているので、その経験を得たうえで、自分たちのアイデンティティは『社会的な視点』だと考えている人も多くいるのでしょう」(キム・ソヨンさん)
韓国では、若者の失業率が高く、非正規雇用の割合も高い。ただ、同じ悩みを抱えている日本からみると、特にソウルはとてもアグレッシブで活気のある街に感じる。ソウルで生まれ育ったというキム・ソヨンさんは、いまのソウルについて何を思うのだろう。
「ソウルはよくも悪くも欲望の集合体のような街。私は数年前にソウルから車で30分ほど離れた場所に引っ越しました。私が生まれ育ったエリア(インタビューをした書店『アチムダル』のあるエリア)は、小さな書店や出版社が多く、文化的な空気があるのでたまに訪れては散策していますが、若者に人気の江南などは一年に一度行くか行かないか。庶民的な場所だったところが、高級ブランド店の立ち並ぶ場所に様変わりするのに、驚くことも多いです。でも、その変化の速さがソウルの特徴であり魅力とも言えますね」(キム・ソヨンさん)
お話を伺った書店
【延南洞】
アチムダル(아침달)
所在地 ソウル特別市麻浦区成美山路153-16 2F(서울특별시 마포구 성미산로 153-16 2F)
電話番号 02-3466-5238
営業時間 13:00~20:00
定休日 日曜
Instagram @achimdal.books
キム・ソヨンさん
詩人。露雀洪思容文学賞、現代文学賞、李陸史詩文学賞を受賞。2022年、『詩人 キム・ソヨン 一文字の辞典』が日本翻訳大賞を受賞した。共著に『地球にステイ!』(ともにクオン)がある。
2023.05.07(日)
Photographs=Nanae Suzuki