白い器は、あれこれさんざん悩んだひとのための救世主である。港といってもいい。難破しそうなところへ灯台の光を照らして助け起こしてくれる。ただ白いのに? いいえ、白だからこそ。

 なんとなく自分の器が気に入らないというひとは少なくない。自分で選んだはずなのに、違和感がある。満足がいかない。じゃあどんな器ならぴたりとくるのか、自分に聞いても答えはでない――。でも、それでいいのだと思う。そもそも器にはいろんな要素が複雑にからむ。盛る料理、朝晩の時間、テーブルの面積、ほかの器との相性……試行錯誤を繰り返す三十代の暮らしのなかで、器だけが早々にぴたりと決まるというのも妙なものだから。

 でも、いったん港に立ち寄ってあらたな航路を確保したいというとき、白い器ほど頼りになるものはない。わたし自身がそうだった。忘れもしない、二十代後半に食器棚の中身の方向を決めかねているとき、思いたって業務用のイタリアの白い皿を買い、しばらく使ってみたのである。そして、びっくりした。白を背景にすると、自分のつくる料理がとたんに生命力を得て輝き、さらには白そのものが陰影をもたらす様子を目のあたりにすることになったのである。単調だと思いこんでいたのに、白は食卓にこんな美しい光と影を生みだすものなのか。白い器が見せてくれた魔法、いやたしかな事実だった。

 器のちからを再認識するという意味で白い器は救世主とも港ともなるのだが、しかし、ただ甘やかすわけではない。地味でそっけないと思っていたら足もとをすくわれる。出しゃばらず、料理を否定せず、つねに背後に回って引き立て役に徹するのだが、いっぽう、よけいな装飾がないから料理に視線を集中させ、余白は料理の質感や色彩を際立たせる。使いはじめて、気づく。白い器は、じつは過激でもあるのだった。

 ただし、ひとくちに白い器といっても磁器と陶器では風情がまったくちがう。陶器にも粉引、刷毛目、いろいろ。線刻ひとつ入っただけでニュアンスの変化に目をみはる。白は、こちらに親しく寄り添うが、つかず離れず、ほどよい距離感を失わない。おのずとそなわった節度、それはほかの器にない美徳のように思われてくる。

 だから、白は飽きない。けっきょくわたしは、以来ずっと白の器と離れられずにいる。

平松洋子さん
エッセイスト。食文化と暮らしをテーマに執筆する。『平松洋子の台所』『買えない味』など著書多数。旬の味を探し求めた食べ歩きエッセイ『サンドウィッチは銀座で』(文藝春秋)好評発売中
 

2011.08.26(金)
text:Yoko Hiramatsu

CREA 2011年5月号
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この記事の掲載号

これからを一緒に過ごしたい! 「一生もの」図鑑

CREA 2011年5月号

絶対保存版 使い捨て感覚はもう卒業 
これからを一緒に過ごしたい! 「一生もの」図鑑

定価 630円(税込)