イラン皇弟の接伴が終わっても二人は東京ローンクラブでテニス交流をした。6月9日は確実である。しかし、その後のテニス交流はそう頻繁ではない。明仁皇太子は6月23日~7月10日までの18日間、北海道行啓に出掛け、7月18日~25日は葉山御用邸で静養した。この間、物理的にテニスはできない。7月16日に美智子を誘ったテニスが計画されたが、テニス仲間である織田の連絡ミスで実際は流れた(『天皇陛下のプロポーズ』)。7月に2人がテニスをした形跡はない。

 明仁皇太子は8月1日、静養のため軽井沢に移動し、美智子も8月3日、同じく軽井沢に移動した。軽井沢のテニスの場で二人が会ったのは、おそらく2回だ(8月7日、10日)。8月13日、皇太子の学友の別荘でのパーティーで、皇太子と美智子がダンスを踊った事実も確認される。しかし、これが、婚約発表(11月27日)までに、2人が会った最後であった。その後、3ヵ月半、2人は一度も会っていない。

 婚約発表までのテニスの交流は、10回を少し超える程度であろう。徳川の言う週1回の頻度は、誇張した言い方だ。

 そもそも美智子は明仁皇太子との結婚を意識していなかった。純粋に皇太子とテニスの練習をしただけである。逆に、結婚をまったく意識しなかったから、気軽にテニスができたのだ。テニスは2人きりのデートでもないし、結婚を前提にした交際でもない。

 徳川ら学友の証言は、恋愛を過度に物語化する。スポーツを通じて距離を縮めたとするストーリーになっている。

 

ツーショット写真の裏側

 1958年8月に軽井沢で撮影された「ツーショット」写真も、2人が親密に交流した印象を与えるが、果たしてどうか。仲よく並ぶように見えるが、実際は間に男性ひとりがいる。偶然、仲よさそうに撮影されたショットに過ぎない。

 明仁皇太子はその年の夏、軽井沢で友人・知人多数と頻繁にテニスをした。そこには多くの女性がいて、美智子もそのひとりであった。新聞社は、皇太子周辺にいる女性を片っ端から撮影した。毎日新聞記者藤樫の旧蔵資料(「皇太子妃候補関係ファイル」)のなかには、同紙がこの年、軽井沢のコートで撮影した若い女性のリストが残り、25人もの名前が挙がる。

2022.05.03(火)
文=森 暢平