「帝国大学と早稲田大学はどっちが立派ですか」八雲の答えは…
1904(明治37)年の春には、早稲田大学に招かれます。水曜と土曜に19世紀の英文学史と近世の詩人についての講義を合わせて、週4時間おこないました。早稲田は帝大とまったく違う校風で、和服で通う学生も多く、八雲はその肩肘の張らない雰囲気に居心地の良さを覚えたようです。
「帝国大学と早稲田大学はどっちが立派ですか」
と一雄は八雲に尋ねたことがあります。
八雲は厖大(ぼうだい)な金文字入り装丁の本と黄色い紙装丁の清楚な本を指さして前者が帝大で、後者が早稲田と説きました。そのうえで、
「煌(きら)びやかな着物が必ずしも人格の表現ではないように装丁で本の価値が定まるものか」
と教えました。
創始者で政治家の大隈重信(1838~1922)に会ったこともありました。
「宗教の仮面をかぶって日本を侵略しようとする西洋人らにご注意を」
とつい言わずもがなの意見を述べてしまい、大汗をかいて帰宅し、苦笑いを浮かべていたそうです。当時10歳だった一雄は長じて、早稲田に進みました。
一雄の『父「八雲」を憶う』によると、この年の夏、一雄へのホームスクーリングで『怪談』を読みました。一雄が希望したのです。この時、八雲は面はゆげで、誤訳についてもほかの詩歌や散文の時のように、手厳しいことは言いませんでした。
〈そして「この本あなた真実(ほんとう)好きですか?」と幾度も尋ねました〉
「やさしくて面白いです」と答える度に八雲は苦笑しました。
〈パパが自分の著書(ほん)を息子に教えること誰にもいうないよき。私少し恥じる〉
とつづっています。
八雲は恥ずかしがり屋で、自らの著書が入れてある本箱だけは戸棚の中へ隠して、人の目にふれないようにしていました。そして『怪談』はホームスクーリングの最後の教材になりました。
