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 山小屋スタッフがつくるおいしいクラフトビールがあるらしい。その醸造家は元新聞記者であり、世界を旅してきたカヌーイスト? 東京でのとある取材でそんな話を聞きつけた筆者は興味を惹かれ、さっそく徳島にあるブリュワリーを訪ねてみた。


自然を愛するカヌーイストの、地元・徳島での挑戦

 徳島市中心部から西方へ、車で1時間ちょっと。四国屈指の名峰・剣山へと続く山道を上っていったところに、「パドルブリュー」(美馬市穴吹町)はある。周辺には小さな集落があり、すぐそばを流れる剣山源流の穴吹川は美しい。

 出迎えてくれたのは、いわゆる“山男”のイメージとは異なる、柔らかい雰囲気の男性だった。醸造家の新居拓也さん、38歳。こちらへという新居さんのあとをついていくと、彼の実家である一軒家のとなりに小屋があった。

 「もともと納屋(なや)だった建物を改装して使っているんです。四国では一番小さな醸造所だと思いますよ」と、新居さんは話す。小屋の中には、コンパクトなサイズのタンクや鍋がところ狭しと並ぶ。アメリカで自家醸造向けに販売されているものを輸入したという。

 小屋の壁には、社名の由来にもなっているカヌーのパドルがかかっている。聞けば、ただの飾りではなく、ビールの鍋をかき混ぜるときに実際に使っているという。新居さんは「ふつうはしゃもじのような形のものを使いますが、僕にはカヌー用のほうがやりやすいんです。パドルワークには自信がありますよ」と笑う。

 剣山で山小屋を営む家に生まれた新居さんは、身近な自然とともに育った。カヌーイストで作家の故・野田知佑さんが吉野川で開校した「川の学校」には一期生として参加し、10代の頃から国内外の川をカヌーで旅してきた。

 大学卒業後は徳島新聞の記者となり、30歳手前まで警察や県政担当として多忙な日々を過ごす。その後、家業の山小屋を手伝いながら、カヌーの旅を再開。野田さんの著作にもたびたび登場し、カヌーイストの聖地とも称される北米のユーコン川に通うようになり、2018年にはアメリカ人ら海外の仲間と全長約3200キロメートルの川下りに挑んだ。

 2か月超にわたる一世一代の大冒険は、完全制覇とはいかなかったが、ブリュワリー開業への思いがふくらむ大きなきっかけになったという。

「『ユーコンブリューイング』というビール会社が僕らの旅のスポンサーになってくれたんです。創業者たちは、ユーコン川を旅しているときにクラフトビールをやろうと思いついたんだと、僕に話してくれました。それ以前からアメリカの旅の中でクラフトビールを知って気になっていたところだったので、彼らの話を聞いて始めてみたいなという思いが強くなりました」

 ちなみに、その川旅ではユーコンブリューイングの好意で、ビールをもらい放題だったそう。新居さんは「欲張りすぎてしまった」と、ビールを持っていきすぎて、その重みでカヌーが沈みかけたのだとか。ほかにも旅のちょっとしたポカがあり、のちに取材を受けたアウトドアライターから“うっかり冒険家”と命名されている。

2025.04.11(金)
文・写真=一ノ瀬 伸