この話をすると、友達を含めてみんなが「いや落語はそのつもりで聴きにくるんだから、少々男尊女卑でもいいんです」って言います。ところが立川流っていう、落語協会から逸脱し寄席やホームを持たないところで生まれ育った僕らです。志の輔であろうが、僕であろうが、志らくであろうが、見知らぬ居酒屋に飛び込みで入って、「落語家なんですけど一席やらせてくれませんか」「はあ? うちで?」「大丈夫です。ビールケースとウレタンの座布団があればいいので」っていうのが僕らの初高座でした。
だから、談志が死んで十三回忌、もっと攻めなきゃだめなんじゃないの? いまの人たちに落語をプレゼンすべきじゃないの? 俺もそろそろ芸人としての残り時間が少なくなってきてるんだから心の思うままにやるべきじゃないの?
やっぱり、落語はいまの人の心にもどこか響くはずだと僕は信じているんです。それが証拠に、400年間一度も沸点に達したことない芸能なんだから。沸点に達した芸能はいずれ崩壊する。女義太夫、浪花節、漫才もそうかもしれない。落語は種火のまんまなんです。
今の時代に「人間の業を肯定する」すること
岡村 『赤めだか』に、談志さんがおっしゃった落語の定義の話がありましたよね。主君の敵討ちをした赤穂浪士を例にあげ、「落語っていうのは討入りに行った四十七士以外のやつらの話なんだ」と。「討入りが怖くて逃げてしまったかっこ悪いやつらのみじめな話を拾って、『人間の業』を肯定する、それが落語なんだ」と。
談春 実はね、いま、それを疑問に思っている自分がいるんです。というのは、落語はいままで、男が女の気持ちに寄り添うような、新しい価値観なんていらなかった。もともと落語は男の楽しみ。女子供には見せちゃいけないもんだった。寄席は悪所と言われてましたから。
でもいまは違う。女性客も多い。会によっては女性のほうが多いことだってある。そうすると、男が女のことをちゃんと理解して語らなければ、本当の意味で「人間の業を肯定する」噺はできないんです。だから、近年、女性の落語家が増えてきたのはそれをやらせるためじゃないかって。
2024.10.13(日)
文=辛島いづみ