「……全部?」
「はい。何か不都合でも?」
胡乱げに問い返せば、いや、と首を振られる。
「なんでもない。ご苦労であった」
再びハイと頷きながら、雪哉は慎重に若宮の表情を窺った。
「ただし――課題には、手を付けておりませんが」
「うん」
それでいい。
きっぱりとした言葉に、一瞬、雪哉は呆気にとられた。想像していた反応とは、随分と異なる返答である。
「それでいいって、あの、一応墨は摩っておきましたけれど、この後ご自分でなさるおつもりですか?」
その言葉に、若宮はほのかな笑みを浮かべた。
「いいや。墨は有難いが、課題をするつもりはないな」
「ですがこのままでは、学士に怒られるのは殿下では」
てっきり厭味でも言われるものかと思っていた雪哉は、淡白な若宮の様子が、逆に心配になった。だが、若宮は雪哉の言葉にも、軽く首を傾けただけであった。
「私は、別に構わないが。それとも、お前は代わりにやりたかったのか?」
これ、と指差された課題を見て、雪哉は顔をしかめた。
「ご冗談を」
「ならば良いではないか。すておけば良い」
すておけば良いのですか、と力無く繰り返し、雪哉は口を噤んだ。
「ああ、それと雪哉」
今度は何だと思いながら、雪哉は「はあ」とおざなりな返事をした。
「お前、私の近習になりなさい」
唐突な命令に、今度こそ、雪哉は絶句した。
近習は、仕事そのものは側仕えとほとんど変わらないお役目である。だが、この微妙な名称の変化によって、周囲の見る目は大きく変わる。
あくまで仕事として仕える者を『側仕え』というのに対し、『近習』は、主君との個人的な付き合いも含んだ、最も近しい者、といった意味合いも含んでいる。一言で言うならば、未来の側近だ。他に側仕えが増える事があったとしても、その立場はあくまで近習の下に置かれるのだ。これは、事実上の昇格と同じである。
他の側仕えならば喜んだ話でも、雪哉からすれば、まさに鳥肌ものの話だった。「異存はないな」と確認され、雪哉は「むしろ異存しかありません」と、よっぽど言ってやろうかと思った。
2024.04.15(月)