としか返事ができなかったのですが、そのときの嬉しさは今でも覚えています。

 

 翌年、わたしはヴェルビエに出向いて、世界中から集まった一流の演者からレッスンを受けることができました。

《ピアノ・ソナタ 第10番》に魅了されて

 19年のチャイコフスキー国際コンクールでは、第1次予選の古典派課題曲として《ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330》を弾きました。実はこの《第10番》、わたしの人生を変えたとも言える楽曲なのです。

 10歳のときのこと、わたしは20世紀最高の演奏家と名高いピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツのリサイタルを収録したDVD『ホロヴィッツ・イン・モスクワ』に出逢いました。これは青年期以降アメリカで活動していたホロヴィッツが、約60年ぶりに故郷ロシアに帰国した1986年にモスクワ音楽院大ホールで開かれた伝説のコンサートです。

 彼の《第10番》の演奏には、大きな衝撃を受けました。当時はうまく言い表せませんでしたが、「ピアノにはこんなにも可能性があるのか!」という感嘆だったのでしょう。モーツァルトが遺した素晴らしい楽譜を演奏者が受け取り、豊かな解釈と積み上げられたテクニックを用いて現代に伝える。ひとつの曲を介し、時空を超えて表現者が繫がり合う瞬間を目の当たりにしたとでも言いましょうか。この体験を機に、わたしはこのピアニストに強く憧れるようになりました。

 だからこそ、いつの日かしっかりモーツァルトに取り組みたい——そう心に決めていました。チャンスをくれたのは、またもマーティンでした。チャイコフスキー国際コンクールでの演奏も聴いてくれた彼は、21年のヴェルビエ音楽祭でモーツァルトのピアノ・ソナタ全曲をやろうと声をかけてくれたのです。

 

モーツァルトのピアノ・ソナタ全曲演奏への挑戦

 問題は、その時点でわたしが弾いたことのあるモーツァルトのピアノ・ソナタは、全18曲のうち3曲しかなかったこと。この話を受けるとしたら、1年のうちに15曲のソナタを仕上げなくてはならなくなります。だからといってわたしに、この夢のような提案を断るという選択肢はありませんでした。

2024.02.14(水)
著者=藤田真央