横浜の名物づくりに挑む

 崎陽軒は、はじめからシウマイを看板商品にしていたのではない。
 1872(明治5)年、新橋との間で開通した日本初の鉄道の横浜駅(現在のJR桜木町駅)構内にルーツがある。第四代駅長だった久保久行が退職後、友人らの勧めで当局と交渉し、妻コトの名義で構内での物販の営業許可を受けた。出身地の長崎を、来航した中国商人が「太陽のあたる岬」との意から漢文調に「崎陽」と呼んだ。久保は、この長崎の別称を屋号に冠した。
 1908年に営業を始め、駅構内で牛乳やサイダー、餅などを売り始める。横浜駅の移転に伴って崎陽軒も移り、駅弁の製造販売に乗り出した。その支配人に任ぜられたのがコトの婿養子の野並茂吉である。茂吉は、のちに株式会社化された崎陽軒の初代社長に就く。
 ほどなく幕の内弁当などを扱うようになっていったが、東京駅から約30分と近いこともあり、売り上げは振るわず、横浜らしい特色のある商品も生み出せずにいた。茂吉が目をつけたのは、当時は南京町と呼ばれていた現在の横浜中華街である。
 南京町の店では、どこでも突き出しとして焼売が供されていたことから、これを名物にできないかと思いつく。中国・広東省の出身で、南京町で中華料理店を営む腕のいい点心職人として知られる同い年の呉遇孫ごぐうそんを崎陽軒にスカウトし、駅弁にふさわしい、冷めてもおいしい焼売の開発にあたらせた。試行錯誤の末、水に浸して戻した干帆立貝柱を混ぜ合わせることによる独特の風味とレシピを確立する。そして、1928(昭和3)年、名物「シウマイ」を発売するのである。現在と同じく一口サイズで、1箱12個入りで50銭だったとの記録が残る。
「創業者や呉さんら先人がめざしたのは、まだ横浜には名物と呼べるものがなかったから、それを自分たちの手でまったく新しくつくるということでした。われわれの手で横浜の名物をと、これがうちのチャレンジングな社風にもなっていったと思います。祖父も、うまいことに中華街、それから焼売に目をつけましたね」
 豚肉、干帆立貝柱、たまねぎ、でんぷん(片栗粉)、そしてグリーンピース、調味料は塩、砂糖、胡椒のみと至ってシンプルである。合成保存料や着色料は使っていない。小麦粉で作る皮もむろん自社製である。
「発売以来、材料もレシピもまったく変わっていません。変わったのは、手作りから完全機械生産になったことくらいです」
 野並のまぶたには、最晩年まで毎日、崎陽軒の本社兼工場にバスで通ってきて、陽当たりのいいところに腰かけて船を漕ぎつつ、従業員たちがシウマイづくりに精を出すのを満足げに眺めている呉遇孫の姿がいまも懐かしくよみがえる。

2023.05.18(木)