すべてをくぐり抜けてきたからこそ共鳴する、女性メンバーの絆

 本作を見ていると、年齢を重ねた男性陣の多くが過去の傷、これからの不安を埋めるために女性に「救済」を求めがちな「ケアの非対称性」がどうしても目に付きます。

 しかしそれ以上に思い知らされるのは、女性たちが背負ってきた「女性として生きることの圧倒的な大変さ」そのものです。

 仕事での理不尽なキャリアの分断、結婚や離婚の選択、加齢に伴う身体的・社会的なプレッシャー。右肩上がりの時代に「守られてきた」シニア男性陣とは違い、とりわけ社会構造のひずみや自己責任論、そして旧態依然とした価値観のしわ寄せのなかで「不本意な選択を強いられた側」としての痛みや不条理を真っ当に引き受けざるを得なかった、氷河期世代やアラフォー世代の女性たち。

 この里に来るまでの数十年、それぞれの戦場で「女性として生きることの過酷さ」をたったひとりで引き受け、くぐり抜けてきた彼女たちは、「自分の人生や尊厳を守るのがどれだけ大変か」を骨身に染みて知っている。

 だからこそ、世代やキャリアがバラバラでありながらも、女性たちの間にマウンティングなんて驚くほど希薄でした。女性同士で交わされる対話は、互いの痛みを分かち合い、尊厳を取り戻すための切実なエンパワーメントとして機能していたのです。

 「あいの里」で100kmを完走したキャッシーも、仕事を優先してリタイアしたえのかのも、支える側を降りて博士を選んだむぅこも、「自分の人生を自分で選び取る」ことを優先した。

 彼女たちの決断を女性陣が全力で肯定し、涙ながらに背中を押す姿は、単なる「大人の友情」を超え、過酷な現実を生き抜いてきた者同士だけが分かち合える深い連帯の証。だからこそ、観ていて胸を打たれるのです。

分厚い「人生の履歴書」を交換する大人たち

 若者の恋リアが「未来を白紙から描く物語」だとすれば、「あいの里」は「すでに書かれた分厚い人生の履歴書を、互いに見せ合い、承認し合う物語」だと思います。

 そこで交わされる言葉には、老いや病、孤独、そして過去の選択への渇望が詰まっており、その現実は時に直視するのが苦しいほど生々しい。

 だからこそ、ベッキーの鋭くも温かいツッコミや、田村淳の俗っぽい茶化しといった、バラエティに長けた2人による番組の翻訳は欠かせません。

 出演者を冷ややかに消費するような悪ノリは不要ですが、あまりにも重く切実な「大人のリアル」を私たちがエンタメとして胃もたれせずに受け止められるようにほぐしてくれる、このバラエティの枠組み自体は、不可欠な「胃薬」として絶妙に機能しているといえます。

 広すぎる年齢幅の中の交流で、奇跡のように互いの人生の重みを引き受け合った覚悟に、予定調和のギミックを突き破って本音をさらけ出した叫びに、そして女性たちの連帯に、それぞれ胸を揺さぶられるとき、私たちは思うんです。

 「あいの里」とは、恋愛というフィルターを通して「自分の人生を肯定し、他者の人生を丸ごと受け入れられるか」を問う、最も泥臭く最も温かい人間讃歌なのだと。