パッタイと焼きうどんの境界線はどこにある?
変容していく食文化は、永田康祐の映像作品全体をつらぬくテーマだ。しかも彼の作品自体、短い時間のなかで徐々に形を変え、知らぬ間に別のテーマと接続していく。たとえば作家自ら料理をし、その作業風景に英語のナレーションを重ねる『Translation Zone』は、中国を起源とする「チャーハン」が世界各地でどう変容していったか、という話から、言語の翻訳の話へと移り、さらに他民族国家シンガポールの麺料理「ラクサ」と「パッタイ」をめぐる物語へとみるみる変容する。
そもそも料理のレシピとは変容する生き物ともいえる。そのとき手に入る材料や個々人の味覚の好み、時代の流行、さらには作る人のその日の気分によって、レシピはその都度自由に変化を遂げるからだ。永田は、こうしたレシピの持つ無限の可能性を、言語の翻訳という行為が持つ創造性と絡めて語っていく。
作品のなかで特に興味を惹かれたのは、タイを起源とするパッタイが日本のレシピサービス「クックパッド」でどのような変化を遂げていったか、という話。本来のパッタイとは、米で作った麺、ライスヌードルを使った炒め料理だが、クックパッドでは、うどんの麺を使ったパッタイのレシピが多数掲載されているという。米の麺を小麦の麺に置き換えたパッタイはもはや焼きうどんでは? という疑問がまず浮かぶ。とはいえ、実際に作中で披露されるうどん麺を使ったこの特製パッタイを目にした人は、「これはたしかにパッタイだ」と思うはず。
つまり焼きうどん/パッタイの間にあるのは見た目の問題なのか、それとも実際に食べたときの味の印象で決まるのか? こうして、私たちが何をもってそれぞれの料理の固有性を捉えているかが見えてくる。
ピュレの歴史から「食」と「身体」の関係が見えてくる
食について考えるとき、作る行為と同じくらい重要なのが、食べるという行為だ。どんな道具を使い、どんな調理法でどう食事をするかは、地域や時代、流行によって違ってくる。そしてその違いは、ときに人間の身体にも大きな変化を及ぼす。
永田康祐の『Purée』で披露される、17世紀のフランス貴族社会で広まった料理「ピュレ」をめぐる話がおもしろい。本来、ヨーロッパの人々は、骨から直接歯で肉を噛みちぎる形で肉類を食べていた。それが食材をすりつぶして作るピュレの登場によって、どんな食材もスプーンですくって食べるだけに変わり、これこそが高貴な食事のありかただと貴族の間で大流行したという。ミキサーやブレンダーのない時代には、ピュレは大勢の料理人が手間暇をかけて作る贅沢な料理だった。つまり、かつては自らの手や歯を使って行っていた「食べ物を切り刻み、すりつぶす」行為を、人々は自らの身体から切り離し、料理場の労働者たちの労働行為として明け渡したのだ。
しかしその後に誕生したナイフやフォークの普及が始まると、ピュレの流行も終わりを遂げる。人々は、一度は料理場に明け渡した「食べ物を切り刻み、すりつぶす行為」を再び自らの身体に取り戻す。さらにこの食事方法の変化によって、人々の歯の形もまた変わっていく。食事の仕方が、人間の身体の形をも変容させていったのだ。私たちは、ピュレという誰もが知る食べ物をきっかけに、食事とは肉体労働を伴う行為であることをあらためて知り、同時に人類の身体の変化の不思議にたどりつく。
