弟は「嫌だねえ」の一言で済ませていたが、中央だったらこの後に「これも全て、若宮殿下のせいだ」という陰口が続いていただろう。
いずれ、この山内の地を背負って立つ日嗣の御子、若宮殿下は、雪哉が中央で仕えていた相手であった。
若宮は、山内で最も尊い貴人でありながら、評判の良かった実兄を譲位させて宗家の後継に収まったという、悪名高い男でもあった。そのため宮廷内に敵も多く、ここ数年の不作や大水までが「本来の則を乱した若宮のせい」にされるという、非常に苦しい立場にあったのだ。
短い間ではあったが、雪哉が仕えている間にも天災の責任を若宮に求める声は多く聞こえて来た。今でもそういった話を聞くと、複雑な心境にならざるを得なかった。
思わず、顔を背けるように視線を遠くへ向けた雪哉は、青く晴れ渡った空の中に、一つの黒い影を見た。
大烏である。
雪哉の視線を追った兄と弟も、すぐにその姿に気が付いた。
「父上が帰って来たのかな」
末弟の言葉に、雪馬が「違うだろう」と返す。
「騎乗している者が見えない。『馬』じゃなくて、鳥形の八咫烏じゃないか?」
雪哉達、八咫烏の一族は、人形と鳥形という、ふたつの姿を持っている。
このうち、鳥形の姿を取る事は、八咫烏にとって「恥ずべき事」「行儀の悪い事」とされていた。雪哉のような武家の地方貴族、里烏、山烏などと呼ばれる平民は、鳥形にも抵抗が無い場合が多かったが、中央貴族である宮烏などは、一度も鳥形になった記憶がないまま一生を終える者も少なくはなかった。
基本的に八咫烏は「人形のまま暮らしたい」と考えるのが、普通なのである。
それというのも、人の姿での生活が立ち行かなくなり、一生を鳥形のままで過ごさなければならなくなった者は、もはや八咫烏として扱ってもらえなくなるからだ。自由に人形になれない代わりに、食事の面倒を見てもらえるよう、飼い主と契約した八咫烏は家畜として働き、『馬』と呼ばれるようになるのだ。
2024.07.27(土)