そのことに、加藤は強く反対した。
「ナースの手間を減らしたいっていうことですか? それって、本当に患者さんのためになりますか? 車椅子に乗れば離床の時間も増えますし、リハビリにもなります。そもそも、個室とはいえ、お食事をとる部屋にずっとトイレがあるのって、気分悪くないですか?」
加藤の意見は一理あった。しかし、特に人の少ない夜勤帯は、わざわざ車椅子に乗せる時間がないのも事実だった。
「ナースの手間だけじゃないよ。車椅子を使えば、そこからまたトイレにも移乗しなきゃいけないんだから、患者さんだって疲れるでしょう。それに、間に合わなかったら下着も汚れちゃう。夜はお部屋で楽に済ませたいって思うこともあるんだよ」
私は説明した。加藤は、真剣に聞いていた。ほかの看護師もさまざまな意見を出し合い、結局、夕食後から朝食前まで室内にトイレを設置する方向で決まった。看護に完全な正解はない。患者の病状や個別性を考慮し、みんなで話し合って、良いと思われる方法の中から実現可能なものを選んでいく。
このとき、加藤を「一年目のくせに生意気」と思った先輩もいたかもしれない。でも、加藤にとって大切なのは、同僚の評価よりも患者への看護なのだ。
たしかに気の強い子だったな、と思い出す。私は私の正義を、ためらわず誰かにぶつけられるだろうか。サンボがジョッキを傾けてビールを飲み干す。
「ねえ、帰りに、ちょっとだけグレイス港台に寄ってみてもいい?」
サンボは私をちらりと見てから「いいよ」と言った。
グレイス港台は、交通量の少ない道路沿いに建つおしゃれなマンションだ。見上げると七階まであった。各階に十部屋あったとして、全部で七十世帯ぐらいか。茶色いレンガ風の壁はところどころ色が変わっていて、新築ではないらしい。外塀は低いブロックでその上にフェンスが立っている。建物の左端に幅の広い階段が数段あり、その先がエントランスだ。エントランスに向かって右横、フェンスのすぐ内側に、一本の大きな木が立っている。私はエントランスの近くの歩道に立つ。
2024.05.11(土)