と兄に驚かれる時代でもあった。

 そんな中でりんは、好きな絵の修業をするため、東京に出ることを熱望する。

「明治の世にて、私も開化いたしたく候」

 と置き手紙を書き、家出を決行するのだ。

 一度は連れ戻されるものの、そこで直面したのは、親友の可枝の自殺である。可枝は和歌が好きだったにもかかわらず、結婚によってその道を閉ざされてしまったのだ。

 可枝は生前、

「道を知るというは、重荷を背負うことにございます」

 と、りんに語っていた。好きな道を歩む喜びを知っていたがために、可枝は結婚によって道を閉ざされ、死を選んだ。何かを好きになることが、女の人生では足枷となったのだ。

 可枝の死に接した後、りんの母は、娘が東京で絵の勉強をすることを認める。結婚して子を産むのでなく、好きな道を一人で究めることを娘に許した母の覚悟は、いかばかりのものだったか。

 それからのりんは、“好き力”を決して緩めぬことによって、自分で自分の道を拓いていった。師を得ても「違う」と思ったらすぐに替え、やがて西洋画を学ぶべく工部美術学校に入学。学費の支払いがピンチの時は二度にわたって救いの手が差し伸べられたのも、絵に対する彼女の情熱が、周囲に伝わっていたからであろう。

 やがてロシア正教会の信徒となると、日本人初の聖像画師となるべく、ロシア留学の機会が与えられる。サンクトぺテルブルクの女子修道院で絵を描く日々の中でも、りんは自分が望む道を進むべく、常に意思や望みをはっきりと述べるのだった。

 印象深いのは、ロシア留学時代の、ギリシャ画を巡る周囲との軋轢である。女子修道院で模写を命じられたのは、ギリシャ画の素朴な聖像。しかしりんにはその絵が稚拙に見えたのであり、写実的なルネサンス様式の聖像画を描きたいと主張するのだ。

 なぜ、ロシアの人々はギリシャ画にこだわるのか。りんがロシアにいる間、その謎が解けることはなかった。しかし帰国後、りんが一人で駿河台の聖堂に佇んでいる時、彼女は天のみちびきを得る。

2024.04.18(木)
文=酒井 順子(エッセイスト)