本書の冒頭に収録された「模倣の天才」は百歳直前まで生きてしごとをし続けた宇野千代が、その三分の一の時点に位置する三十八歳の時に記した回顧録である。宇野千代は一八九七年一一月二八日に、山口県玖珂(くが)郡横山村(現・岩国市)に生まれた。二歳で生母・トモが結核によって他界したために、父・俊次は佐伯リュウと再婚した。「よよと泣かない」において言及される「二人の母」というのは、トモとリュウであり、米寿を過ぎて書かれた「風もなく散る木の葉のように」で「代々酒造りをいとなむ旧家であった家を早くから離れ、ついに定職を持たずに死んだ、放蕩無頼の父」と称されているのは俊次である。

 宇野千代十四歳の折、父の決めた従兄・藤村亮一のもとに嫁入りするが十日で出戻るという体験をした。十九歳で同棲し、後に二十二歳から二十七歳まで婚姻関係にあった藤村忠は、亮一の弟である。

 藤村忠と協議離婚が成立する前年から同棲していた尾崎士郎とは二十九歳から三十三歳まで正式な結婚生活を送り、尾崎と別れる直前から同棲をスタートさせていた東郷青児とは三十七歳まで同居した。東郷青児と別れることになったのは、東郷が宇野千代と知り合う直前に情死未遂事件を起こした女性と復縁したためである。

「好いおくさん」として上記の男たちと暮らしをともにしながら、「書く」ことを生業(なりわい)として択んだ宇野千代は、出会いと相手への同一化、そして別れという経過を、その時々の借り物の文体で「書く」という宿命を生きることになった。「学ぶ」の語源が「まねぶ」(真似をする)であることを思えば、「模倣の天才」とは真摯な勉強家の別称でもあるのだが、東郷青児の生と性の遍歴を聞き書きした『色ざんげ』(一九三五、中央公論社)によって宇野千代が文壇における不動の地位を得たことを思い合わせると、彼女の言う「模倣」が作風や文体のテイスト程度のものではなく、興味を持った存在にまるごと憑依(ひょうい)する、独自性に満ち満ちた語りの創出へと発展していくことも、後に明らかになる。

2024.03.13(水)
文=金井 景子(早稲田大学教授)