この記事の連載

 日本やアメリカで急速に進む少子化。なぜ女性は子どもを産まなくなったのでしょうか。そもそも、産まないことは問題があることなのでしょうか。

 カリフォルニア大学バークレー校で歴史学博士号を取得した作家のペギー・オドネル・ヘフィントン氏は、『それでも母親になるべきですか』で、環境問題や医療、戦争、不景気、宗教などが、いかに女性の人生の選択を変化させてきたかを描きました。同書から一部を抜粋して紹介します。(全2回の1回目。後編を読む


失敗するようにできたシステム

 近年、いわゆる「マミーウォーズ(ママたちの戦争)」が勃発し、「正しい」子育てをめぐって母親同士が激しく意見を対立させている。自然なお産か無痛分娩か、母乳か粉ミルクか、自宅か保育所か、添い寝か「ねんねトレーニング」か、ワクチンはどうするか、はたまた、10月に食料品スーパー「トレーダー・ジョーズ」の駐車場で子どもにコートを着せるべきかどうかなど、さまざまな論争がくり広げられている。これらはすべて、個々の母親がおおむねコントロール可能なものであることは、指摘しておきたい。

 マミーウォーズは、コントロールの外にある広大な領土をめぐって戦われることはない。例えば、育児や医療の費用、出産休暇や有給休暇の全体的な不足、子どもを持つ女性の給与を抑えこむ、いわゆるマザーフッド・ペナルティ(チャイルド・ペナルティ)については、管轄外なのだ。これで合点がいく。アメリカの母親は、大きなことに失敗するようにできているので、ささいなことをめぐって争っても不思議ではないというわけだ。そして、たとえ母親になって、社会が要求する役割を果たしたとしても、あなたはずっと勝つことができないのだ。

 子どもを産まないことは、もちろん新しいことではない。しかし、別の地域や別の時代では、子どもの世話をする「手」と「心」は、子宮で子どもを育んだ本人のものとは限らなかったし、本人がひとりで行なうものでもなかった。そういった地域や時代では、次世代を育むリスクと責任と見返りは、コミュニティによって共有されていたのだ。そのコミュニティには、生物学的な母親と一緒に出産していない女性も含まれていた。

 現代では、コミュニティが欠如し、社会や制度、そして現実的に何も支援がないため、子どもを産む人生というものが、生殖にともなう責任とリスクを引き受ける個人の意欲の問題へと縮小されている。私たちは親になることを要求されるが、孤立した泡の中で子育てをするように求められ、支えてくれるものは、大雑把に言えば、自分の銀行口座の他にはほとんどない。おとなしく従った見返りに得られるのは、わが子のあらゆる世話の責任を一手に引き受けることである。一方、子どもを産まなければ、子どもに関わる役割をほとんど持たないという罰を受けるのだ。

 歴史は、そうである必要がないことを示している。女性たちは—12世紀の修道女から19世紀の女性参政権論者、21世紀の環境保護主義者、黒人や先住民族のフェミニストに至るまで—母親を支援することと、子どもを産まない女性の社会的価値を回復することが表裏一体であることを、長年にわたって私たち全員に伝え続けてきた。そろそろ私たちが耳を傾けるときなのだ。

2023.12.12(火)
著=ペギー・オドネル・ヘフィントン
訳=鹿田昌美