私は科学的事実を検証した結果、世界中で公的に推奨されているワクチンの接種を勧めてきました。しかし、ワクチン忌避の源にあると感じる「個人や社会の過去のトラウマの影響」にも、「明瞭に理解できないリスクやベネフィットに対する不安や混乱」にも、またそれにより構築された漠然とした負の印象から抜け出せないことにも、とても共感するのです。
“Them”と“Us”のように対比される対象に見えても、実はそんなに単純な色分けではないのです。その色合いの複雑さも含めての共感があったからこそ、私たちのワクチン啓発活動は分断を超えて、日本の接種率を上げることに貢献できたのではないかと感じます。そんな気づきの声が共鳴するたびに、社会を前進させられることにも気付かされたパンデミックでした。
「分断を超える」色が生まれた
私は以前、政治的分断や思想の分断といった社会の「分断」とは、グループが真っ二つに割れ、意見が相互にまったく交わらない状況を表しているという印象を持っていました。また「分断を超える」とは、多様な意見が認められるというよりも、全員が同じ意見を持つようになることだと思っていた気がします。しかし、実際にはその色分けの中には様々なグラデーションがあり、また色は様々な濃淡で多様に混じり合うのです。
経験や思いを共有することで、全員が「同じ色」になることはなくても、あると思っていた分断の線を超えて、個人が他の個人にエンパシー(empathy、共感)を感じること。経験がそれぞれ異なっていても、他者の思いや経験に思いを馳せてみること。エンパシー一つひとつはささやかで心の内にとどまることが多くとも、エンパシーが寄り集まって何かを強く変えたいという変化の原動力になることもある。コロナ禍のアメリカではより可視化された分断もありますが、逆に「分断を超える」現象も目に見える社会変化をもたらしました。
例えば、コロナ禍のアメリカで広がったStop Asian Hate 運動。新型コロナウイルスが最初に確認されたのが中国だったためにアジア人に向けられたヘイトに対して、Black Lives Matter 運動(黒人に対する警察の暴行や差別意識を撲滅するための運動)に影響される形で生まれた差別撲滅に向けたムーブメントでした。奪われた命は私だったかもしれない、ヘイトを向けられたのは私だったかもしれない──遠い誰か他人の身に起きたことだから関係ないと遠ざけるのではなく、無実の人が人種という属性によって暴行を受けたり、殺されたりしてしまう事態を目にした多くの人が「このままではいけない」と感じ、立場を超えて行動を起こしました。
2023.05.19(金)