理性の力で世界全体を解明できるはずだという考えを啓蒙主義といいますが、そこで見落とされてしまっているのは、人間も自然の一部だということ。言い換えれば、外の自然を破壊したら自分たちの内なる自然も破壊してしまうかもしれないという視点なんですね。

 人間と自然との関係をとらえ直していかないと、人間の本当の幸せとか生きる意味って何なのかとか、決して正解があるわけじゃないけれど、そういうことを考える視座すら得られないんじゃないかと思います。

 

「やっぱり子どもって理不尽な存在なんですよ」

 やっぱり子どもって理不尽な存在なんですよ。子どもは自分が生まれることに関して、いっさい選択していませんよね。選択していないんだから責任もとれませんよね。だけども生きるということだけは背負わされてしまうわけです。つまり子どもというのは根本的に矛盾をはらんだ存在です。

 だとしたら、生きているってこんなに面白いことなんだとか、こんなに豊かなことなんだとか、こんなに深いことなんだなどと、子どもたちが感じとってくれるようにすること以外に、生んだ世代の責任を果たす方法はないわけです。その責任を果たすのが育児だとか保育だとかの大きな目標じゃないかな。

 最初は面白いだけでもいいけれど、やがて「自分はなんで生きてるんだろう?」ということを考えるわけじゃないですか。でもそういうことを考えること自体が、はっきり言って、生まれてきて良かったなと思えるということですよね。そうなってもらうためには、「生きることは耐えることだ」みたいな刷り込みをしたらまずいわけで。

 だとしたら、どういうときに生きている面白さや尊さを実感するかを、まず大人自身が知っていないと。

 大仕事を成し遂げてものすごい歓喜を分かち合うみたいなことは、すばらしい体験だけれど、日常的な生きる実感ではないですよね。もっとシンプルに、「いっしょにいると楽しいね」みたいなものが本質なんです。そういうことが体験的にわかっていないと、実は、何のために保育しているのかとか、育つとはどういうことなのかとか、子どもたちに本当は何をしてあげられるのかみたいなことを深いレベルで考えられないと思うんです。

2021.11.05(金)
文=おおた としまさ