悪い予感を振り払いながら眠った“最後の夜”

「はーい、どうされましたー?」

 ほどなくしてやってきた看護師の女性と目が合ったとき、Aさんは自分の行動への恥ずかしさに言葉が詰まってしまいました。

「あ、いえ……ちょっとベッドの下から物音がした気がしたもので……」

 汗だくで口ごもるその様は、かつての小学生のようでした。

「物音?」

 ヒョイと頭をベッド下に潜らせた若い看護師さん。彼女はすぐに頭を上げ「何にもないですよ。お疲れで眠れないなら睡眠薬処方いたしましょうか?」と笑顔で問いかけてくれました。

「そ……そうですね、いただこうかな……」

「少し待っていてくださいね」

 しばらくして渡された錠剤を水で流し込み、呼び出してしまったことを詫びつつ、Aさんは再びベッドに潜り込みました。

「よかったじゃない! 予定より早く退院だなんて」

「だいぶ炎症は治まっていたので、手術も必要ないと思いますよ」

 翌日の昼、Aさんは医師からの嬉しい言葉を妻と共に聞いていました。

 病気の回復を喜ぶ妻は、スマホで娘に電話をかけ始めています。

「念のため、今晩はこのまま泊まっていただき、明日の退院ということにしましょう」

 これで自宅のベッドで寝ることができる……――医師の言葉に生返事をするAさんの内にあったのはその思いだけでした。

 あのカリカリという奇妙な幻聴。心を苛む幼少期の記憶。

 そして何より、あの不気味に黄ばんだ長い爪の夢。

 夢だとわかっていてもいまだに寒気がするあの光景を振り払うように、Aさんは医師に精一杯の笑顔を向けました。

次のページ まぶたを開ける前から感じた気配