単なる「勧善懲悪モノ」にしない、最大の功労者は

 そして、本作を単なる「勧善懲悪の政治リベンジ物」にさせない最大の功労者が、有力候補・日山流星(松下洸平)の存在です。

 表舞台では完璧なエリート代議士として振る舞い、人当たりもいい流星。彼の傍らには、常に優秀な秘書・昴(倉悠貴)がおり、政治家としてのイメージ戦略を完璧にコントロールしています。

 しかし、カメラが私生活の流星のマンションを映し出すとき、私たちは彼の「別の顔」を目撃することになります。生活感がほとんどない、冷え冷えとした殺風景な部屋。適当な部屋着姿の流星は、一人、カップラーメンにお湯を注いでいます。ガラ空きの棚に置かれているのは、『宮沢賢治全集』と、若き日の茉莉たちとともに写る流星自身の写真、そして電球型のボトルでした。

「私が生まれてきた訳は/何処かの誰かを傷つけて/私が生まれてきた訳は/何処かの誰かに傷ついて/私が生まれてきた訳は/何処かの誰かに救われて/私が生まれてきた訳は/何処かの誰かを救うため」

 流星が口ずさむ、さだまさしの「いのちの理由」。この流星という男もまた、巨大な権力の影で、何かを傷つけ、自らも深く傷ついてきた「不完全な大人」の一人なのではないか。彼の、どこか諦念のある寂しげな横顔を見つめていると、胸の奥がツンと痛みます。

 流星が幹事長に出した「都知事選出馬の条件」が何なのかも気になるところですが、彼にも、あかり陣営を突き動かした泥臭い情熱とはまた別の、張りつめた覚悟があるのでしょう。

 このように本作の凄まじさは、あかりの前に立ちはだかる対立候補たちを、単なる「冷徹な悪役」や「都合の良い壁」として突き放さない点にあります。

 デジタル合理主義の裏で、停滞し続けるこの国をテクノロジーの力で本気で救おうとする風間藍生(梶裕貴)もその一人。彼の徹底した合理主義の裏側にも、古い形式を排して社会を良くしたいと願う、彼なりの思いがあります。

 作中の候補者たちには、それぞれに人が集まるだけの切実な「哲学」があり、この社会をより良くしたいと願う、きらめくような「誠実さ」が描かれています。

 いまの私たちの社会にある実際の選挙は、いつの間にかマニフェストの表面的な擦り合わせや、誰が一番マシかを選ぶような「消去法の選択」、あるいは「どうせ何も変わらない」という冷たい空気に覆われてしまっているように感じます。

 そんな現実を生きる私たちだからこそ、作中の候補者たちが、それぞれの魅力と考えで人々を惹きつけ、陣営が一丸となって未来を信じている姿に、いつの間にか忘れていた「信じられる政治の景色」を重ね、うらやましく思うとともに、あこがれてしまっているのかもしれません。

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